第48話 再会は突然に
アリーナから控え室までの暗い廊下を、ウィレムはアンナの肩を借りながら戻った。闇に慣れない目に辺りは黒くぼやけ、湿り気を帯びた空気が顔だけにあたる。疲労感が全身を包み、鎧だけでなく、肉も皮も、なにもかも脱ぎ捨てて、魂だけでその場に寝転がりたい、そんな衝動に駆られた。
アンナはなにも喋らない。黙ったままウィレムの半身を担いで歩く。表情を確認したかったが、顔を上げる余力すら残っていなかった。
「ねえ、アンナ……」
意を決して話しかけた時、廊下の奥から石の床を叩く足音が聞こえてきた。
「ご主人様、お怪我はありませんか」
小走りで、それでいて優雅さを失わないオヨンコアは、ウィレムに走り寄るとアンナが支えるのとは反対側の肩に身体を入れた。
「そこまでしなくても、僕は大丈夫だよ」
「震える膝でよく言えますね。それとも、アンナさんは良くて、ワタシはダメ?」
オヨンコアがアンナの方を見たようだった。結局ウィレムは二人の肩を借りることになった。本当のところを言えば、足腰は言うことを聞かなくなっていたから、両側から支えてもらえるのは有り難かった。だが、女性二人に引きずられるようにして歩く様は、あまり人に見せられるものではない。
「それで、これだけ無茶苦茶しでかして、満足は出来ましたか」
オヨンコアの口調には棘があった。彼女もウィレムの我がままに付き合わされた一人なのだ。それで無駄骨だったのなら、怒るのも致し方ない。
「満足かあ。結果は見ての通りだけど、僕は楽しかったよ」
「私も楽しかった、です」
唐突に口を開いたアンナの声は、風が壁の隙間を抜けるようにかすれてすぼんだ声だったが、不思議と弱々しくは感じられなかった。
「ウィレムさまは、やっぱり、ウィレムさまでした。でも、これっきりですよ」
「同感ね。こんなこと何度も続けられては、こちらの肝がもちませんもの」
「ごめん」
両側から責められては逃げ場がない。うなだれるウィレムを見て、二人はほぼ同時に吹き出した。
「なんだ、なんだ。負けたくせに両手に花とは、うらやましい限りだな、おい」
向かいから、はっきりとした太い声に続き、金属の擦れあう音が聞こえてきた。
足音は二つ。一つは一定のリズムを崩さずに、もう一つはやたらと金擦れをさせながら、ウィレムたちに近づいてくる。
「いい勝負だった。私たちも血がたぎったぞ」
先ほどとは別の美声が響く。ナルセスの声だった。
鎧姿の二人の男は、ウィレムたちとは反対に控え室からアリーナに向けて歩いてくる。二人に道を開けるため、アンナとオヨンコアはウィレムの身体を引っ張って、壁に寄った。
「二人とも、よく頑張ったじゃねえか」
男は通りすがりにウィレムの頭に手を置くと、無造作に撫でまわした。
「痛っ、何するんですか」
ウィレムのあげた抗議の声を笑い飛ばし、男はナルセスを追ってアリーナへ向かった。頭を上げられないウィレムは、無抵抗に笑い声を聞くことしか出来ない。
その声は、どこか懐かしい、聞き覚えのある声だった。陽光のような温もりのある声、それでいて胸中の芯を強く引っ張られるような感覚、頭に置かれた大きな手の感触にも覚えがあった。
二人の背中がアリーナに消える頃、オヨンコアが思い出したように声を上げた。
「そうです、今の方ですよ。二人の戦いが面白くなるって仰っていたのは」
「あの、ウィレムさま。今の人って、もしかして……」
アンナが言い終わる前に、ウィレムの頭の中で感覚と記憶がつながった。
「二人とも、悪いんだけど、アリーナの見える所まで連れて行ってくれないか」
来た道を戻り、アリーナの入場口から三人が見たものは、ナルセスと互角に渡り合う男の姿だった。長髪を振り乱しながら淀みなくステップを踏み、余裕からか、はたまた純粋に楽しいからか、無精髭にまみれた口元には笑みをはりつけている。
風に舞う羽毛か、川に流れる木の葉を思わせる掴み所のない動き。自由自在にどこからともなく現れる刃を、ナルセスが正面から受け止める。二人の闘い方は静と動。真逆でありながら調和し、まるで舞踏のように鮮やかに見る者を魅了する。どこからか軽快な旋律が聞こえてきそうな気さえした。
観客は立ち上がって足を踏み鳴らし、二人の顔には狂喜の笑みが浮く。円形闘技場全体が彼らの戦いに呑みこまれていた。
同じように二人の戦いに魅入られたウィレムが、男の名を呟いた。
「やっぱり、レオポルド兄さんだ」
その後、二人の舞踏は終曲へ向かった。
徐々に静が動を呑み込んでいき、流水は岩に当たって砕けた。
そして、ドラが三度鳴った。