第40話 闘技会開会
闘技会の当日、コンスタンティウムの街は朝から色めき立っていった。ヘレネス国王ロマノス二世の即位五十周年を記念する、一週間にわたる祝祭がその日はじまるからだ。
闘技会の会場となる円形闘技場にはコンスタンティウム中、いや、ヘレネス国外からも、膨大な数の観客が詰め掛けていた。彼らの発する熱気によって、闘技場のなかだけが一足早い夏を向かえたようである。
闘技場中央のアリーナには戦士たちが姿を見せ、観客の歓声に応えていた。
観客席の一角、ひときわアリーナに近い場所に特設されたバルコニーから、ベリサリオスが姿を現す。何事か声を張り上げているが、喧噪に掻き消されて、よく聞こえない。
突如鳴り響いたドラの音に、観衆の声が遮られた。人々の視線は音のしたバルコニーの方へ集まる。皆、次に起こることを知っていた。期待が渦を巻きながら、静かに、だが、着実に積み重なっていく。
「東エトリリア帝国、皇帝陛下のおなーりー」
高らかに響く声に誰もが息を呑んだ。
その人影は、ゆっくりと一歩ずつ踏みしめるように歩きながら、バルコニーの柵の前に姿を見せた。その途端大歓声が沸き上がる。熱狂する会場を満足そうに一望すると、ヘレネス王ロマノスは手をかざして観衆を黙らせた。
皺にまみれた白い顔は髪と髭との境界が曖昧で、頬はやつれ、眼窩はくぼんでいるというのに、瞳だけが槍の穂先のように鋭い光を放っていた。
「戦士たち、多いに励め」
そう一言だけ言うと王は席に戻った。客席が、そして、アリーナの戦士たちが、鳴り止まぬ喝采で王の背を送った。
「ヘレネス王は民に慕われておいでなのですね」
アンナは隣に立つナルセスの耳に届くように、声を張り上げた。そうしなければ、四方から響く声の波に、自分の声が塗りつぶされてしまう。
「今の繁栄は陛下あってのものだからね。皆、心から陛下を崇敬しているのさ」
ナルセスがぐるりとアリーナを見回した。
ナルセスとアンナ以外に、十人の戦士がその場にいた。大男もいれば、白髪の老人もいる。マントを頭からかぶり、顔を隠した者もいた。
「これで出場者は全員ですか」
「そうだ。各軍管区の代表や、有力者が推薦した猛者たちだ」
ナルセスが目に付いた何人かについて、話してくれた。
出場者中最大の巨体を有する男がガイウス。七つの軍管区のうち最も豊かなダナビウス軍管区の代表で、その腕力は十人力とも、二十人力とも言われている。
鼻の高い縮れ毛の老人は、国王直轄軍の古株で、ガレノス。周りが幾ら勧めても、一向に引退しようとしない頑固な年寄りなのだそうだ。
「ベリサリオス様は出場なさらないのですね」
少し残念そうにアンナがこぼす。話しをした感じでは、彼も相当な使い手のはずだった。
「あいつも口惜しそうにしていたよ。代理を立てるとか言っていたな」
再度他の出場者を見回す二人に、巨体を揺らしながら近寄ってくる者がいた。
「おいナルセス。いつから闘技場は女と逢い引きする場所になったんだ」
しゃがれ声で見下ろすのは先程教えられたガイウスである。マクシミリアンと同じか、それ以上ありそうな体躯。腹や腕には肉が付いているが、その下に強靱な筋肉が隠れていることは見る者が見れば一目瞭然だった。
「久しいな、ガイウス。彼女は出場者さ。心配するな、実力は私の折り紙付きだ」
挑発をあしらわれたガイウスは顔をしかめてアンナを一瞥した。
「こんな細腕に何が出来るって。見ろ。さっきからびびって、しゃべりゃしねえ」
「別に、貴方が怖いから黙っていたわけではありません」
アンナはガイウスと目も合わせなかった。代わりに、退屈そうに指で前髪を弄ぶ。その光景にナルセスが思わず吹き出した。
ガイウスの鼻息が荒くなり、胸が大きく上下する。結んだ口から耳障りな歯軋りが聞こえてきた。
「女の分際でオレを侮ったな。家で針仕事してればよかったと後悔させてやる」
それでもアンナはガイウスを見ようとしない。怒りに任せた豪腕が高々と振り上げられる。だが、その拳が打ち下ろされることはなかった。
「恥の大盤振る舞いはもう十分だ。女が戦えないかどうか、今、見せてやろうか」
ガイウスの腕を横から掴んだ女性が、険しい目つきで彼をにらんでいた。
背丈こそアンナより少々高い程度だが、日に焼けた褐色の肉体は、男たちに見劣りしないだけの厚みがあった。ぼさぼさの髪を無造作に後頭部で束ねている。
ガイウスと女性がにらみあう。二人の腕には血管が浮き出し、筋肉の収縮が見て取れる。その姿勢のまま二人は全く動かなかった。
「ガイウス、テオドラ、その辺で止めるんだ。仮にも陛下の御前だぞ」
二人の間にナルセスが割って入る。力尽くで両者を引き離した。
ガイウスは忌々しそうにアンナとテオドラをにらみつけていたが、そのうち黙ってアリーナを去って行った。
「みっともない男だねえ。それに比べて、あんたは肝が据わってるじゃないか」
テオドラがアンナに手を差し出した。
「気に入ったよ。あたいはウルカノ軍管区のテオドラだ。あんたは?」
「アンナ・メリノです。ガリアから来ました」
二人は手を握り合った。胝一つないアンナの柔らかな手を、テオドラの分厚い手の平が包み込む。
「あたいらで女だって戦えるって所を、世の男共に知らしめてやろうじゃないか」
大口を開けて豪快に笑うテオドラに対し、アンナは控えめに微笑した。