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第39話 憧れの行方

 黄昏を連れてくる冷たい風が、ウィレムの身体から熱を奪っていく。市街の家々では燭台(しょくだい)に火が入り始めた。商都セサロニカと違い、コンスタンティウムの喧噪にはどこか水気を含んだような、品の良さが匂っていた。

 マレイノス屋敷の庭で夕闇に思いを馳せていると、心底の濁りが少しずつ静まっていく気がした。


 思えば、アンナが旅の道中でナルセスほど親しく接した男性はいなかった。彼はウィレムから見てもいい男だったし、アンナとも気が合っていた。そんな二人を見ていられないというのは、とどのつまり、単なる嫉妬である。

 自嘲気味な笑みが口元に浮いた。自分から婚約を破棄しておいて、未練たらしいにもほどがある。どうもこの感情は、テレーザの言っていた「真実の愛」とは程遠いものらしい。


 気が付くと建物の周りを一周し、入口の扉の前まで戻ってきていた。アンナたちの所に戻るには、もう少し時間が欲しい。何か時間をつぶせるものはないかと見回すと、門柱の(かたわ)らに小さな人影が目に付いた。まだ子ども、背丈から察するに十二、三歳と言った所だろう。



「君、そんなところで何をしているんだい」



 ウィレムは何気なく声を掛けた。急に呼ばれた少年は驚いて飛び上がったが、それでもおずおずとウィレムの方に顔を向けた。



「ぼくはここで主人を待っているのです。そういう貴方はどこのどなたですか」



 少年はくりくりとした瞳を瞬かせながら、ウィレムの顔をじっと凝視した。自分に話しかけてきた人物が何者なのか、推し量ろうとしているようだ。

 少年の顔には見覚えがあった。おそらく、獅子に襲われていた少年だ。



「君がライオンに襲われた時、飛び出していった女の人がいただろう。僕は彼女の同行者で、ウィレム・ファン・フランデレンという者だ」



 少年の顔が瞬く間に華やいだ。



「アンナ様のお連れ様でしたか。ご無礼をお許しください。ぼくはナルセス様にお仕えする者で、エドムンドゥスと申します。エドモンとお呼びください」



 少年エドムンドゥスは年相応の無邪気さで直ぐにウィレムに対する警戒を解いた。ウィレムにとっても、彼は手持ち無沙汰を解消するちょうど良い話し相手となるように思えた。


 幾らか話すと、ウィレムはあることに気が付いた。ナルセスの名が出るとエドムンドゥスの瞳が輝きを増し、声は弾み、頬は赤ん坊のように上気するのだ。彼がナルセスを心底敬慕していることが、容易にわかった。ウィレムはこの少年からどこか自分と近しいものを感じた。



「エドモンは、本当にナルセス殿のことが好きなんだね」

「はい。ナルセス様はぼくの憧れなんです」



 躊躇なく返された答えには一点の曇りもない。彼の屈託ない表情は、ウィレムに捕らえどころのない後ろめたさを感じさせもした。


 そこから、エドムンドゥスによるナルセスの英雄譚が始まった。

 ナルセスは、ヘレネス東部、(しも)オリエントゥス軍管区の小さな自作農の家に生まれた。歳を重ねて従軍するようになると、度々侵入してくる異民族との戦いで才覚を発揮していった。功績により広大な保有地を手に入れ、数年の任期で軍管区を離れる上級軍人たち以上に、地元の軍事的指導者として、民に慕われるようにもなったという。

 彼の名をヘレネス中に轟かせたのが、五年前のブルグル人の撃退だった。調度その時、管区長の後退とコンスタンティウムでの政争が重なり、現場の指揮は大混乱に見舞われていた。その間にもブルグル人たちは次々に侵入し、下オリエントゥスで破壊と略奪を繰り返した。その時、少数の兵を率いて各地を周り、住民を守ったのがナルセスだったのだ。一部では、彼の活躍がなければ、ヘレネス東部は蛮族に掠め取られていたかも知れないとさえ噂されているらしい。


 そこまで話すと、熱を帯びていたエドムンドゥスの声が、急に勢いを失った。



「その時、ぼくの村も襲われたんです。父はブルグル人と戦って、母はぼくを守って、死にました」



 うつむく少年にウィレムはかける言葉を持ち合わせていなかった。ガリアの片田舎、長閑(のどか)なフランデレンでは、異民族の侵入など別世界の話しのように思っていた。理不尽に両親を奪われた少年の心情は、想像するに余りある。

 黙って自分の肩に手を置く青年に対し、エドムンドゥスは気丈に笑ってみせた。



「ぼくは大丈夫ですよ。あの時、ブルグル人に連れてかれそうになるぼくを、ナルセス様が助けてくれました。だからぼくは今、こうしてナルセス様にお仕え出来ているのです。あの方の後ろから少しでもお支え出来るのであれば、ぼくはそれだけで十分幸せなんです」



 エドムンドゥスの話しはウィレムの胸を打った。ウィレムでなくとも、少年の健気(けなげ)さに心動かされない人間などいないだろう。

 だが、確かに震えたウィレムの心に、無視できないしこりがわずかに残っていた。最初、自分と同質の憧憬を彼の中に見出していたからこそ感じる、決定的な違和感。言葉にせずにはいられなかった。



「エドモン、君はそれで満足なのか」



 少年の表情が硬直し、丸い目でウィレムを見つめ返す。



「君は、ナルセス殿と肩を並べたいと思わないのかい。同じ景色を見たくはないかい。彼を越えたいという気持ちは、本当に、一片たりともなかったのかい」



 エドムンドゥスの顔に困惑が色濃く表れる。奇異の眼差しがウィレムを刺した。



「無理ですよ。ぼくは身体も小さいし、凡人だし。そんなこと、考えるのもおこがましいです」

「そうか……」



 ウィレムも、エドムンドゥスも、それ以上しゃべらなかった。

 ウィレムの中でわからないことがあった。「自分が出来ない」ことと、「憧れを諦める」ことが、どうしても噛み合わない。自分では到底追いつけない、どうやっても敵わない、だからといって、走り続けることを、手を伸ばすことを止められるのか。そうなれば、憧れはきっと遙か遠くに消えて見えなくなってしまうのに。


 ウィレムは立ち上がると、未だ困惑でくちごもる少年の頭を撫でた。



「ありがとう、エドモン。おかげで確かめなくちゃいけないことに気付けた。もうだいぶ暗くなった。ナルセス殿を呼んでくるから、あと少し待っているんだよ」



 (きびす)を返し、屋敷の中へ入る。ベリサリオスに新しい頼み事が出来てしまった。話をどう切り出すか考えながら、ウィレムは明かりの灯った廊下を戻っていった。

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