第38話 闘技会への誘い
「それは大変な災難だったね」
正面に座る細面の青年はウィレムの話に静かに耳を傾けていた。ただ、親身になって聞いているというよりも、面白がっているように見えるのは、彼の細い目が常にたわんでいるからかもしれない。
「本当ですよ。実物の獅子が飛び出してきた時には、心臓が止まる思いでしたよ」
「僕が言ったのは、豪傑の相手をさせられた不幸なライオン君のことなんだけど」
応接間の中を静けさが包んだ。青年が慌てて補足する。
「冗談、冗談だよ。今のは笑う所だろう」
そこまで聞いて、ウィレムが小さく吹き出した。当事者だからか、アンナは未だに釈然としない表情をしている。自分が馬鹿にされたと思ったのかも知れない。
ウィレムたちはコンスタンティウムの市街に建つ豪壮な屋敷を訪ねていた。家の主は彼らの前に座る青年で、名をベリサリオスという。
「それにしても、この時期に陛下への謁見とは、フォーカス婦人も無理を仰る」
ベリサリオスは頭を掻いた。テレーザの嫁いだフォーカス家にも劣らぬ名門、マレイノス家の嫡子にしては、愛嬌のある親しみやすい青年である。
「やはり無理なのでしょうか」
「普段なら問題ないんだけどね。でも、今はタイミングが悪いよ」
ベリサリオスは済まなそうに、視線を下に投げた。
「陛下の即位五十年の式典が近い。周辺部族や王侯が休みなく訪ねてきているよ」
ウィレムの顔が曇る。テレーザに紹介された人物ということで、期待していただけに失望も大きかった。まあ、テレーザが彼に厄介事を押しつけただけかもしれないのだが。
「私に名案があるぞ。アンナ嬢に闘技会に出てもらえばいいじゃないか」
よく通る美声を響かせながら、別の青年が部屋に入ってきた。大エトリリア風の茶色い巻き毛に、秀美も涼やかな顔立ち。一見すると優男だが、緩い衣装の上からでも盛り上がった筋肉が見て取れた。見覚えのあるその顔は、獅子を屠った青年、ナルセスだった。
「我が友ベリサリオスの客人だったか。美しきディアナとの再会に我が胸は高鳴っている」
ナルセスはアンナ、オヨンコアの順で手を取ると、最後にウィレムに挨拶した。
あまり愉快なことではなかったが、顔には出さずに会釈を返す。
「来ていたなら声をかけてくれ。水臭いぞ、ナルセス」
突然の来訪者をベリサリオスは嫌な顔ひとつせずに迎え入れ、抱擁を交わした。
話しの見えないウィレムたちは、黙って話しの続きを待った。
「それにしても、闘技会に出場するのがなぜ名案なんだ」
「闘技会で優勝すれば、陛下からお言葉を頂く機会もあろう。覚えめでたければ、式典への招待やその後の謁見も望めるというものだ。今回の祭典は全てお前の家が仕切っている。一存で出場者を一人増やすくらいわけないじゃないか」
ナルセスの表情には一点の曇りもない。あたかも、自分の考えに間違いはないと信じ切っているような自負心が透けて見えるようだ。
「本当に、それでいいのか」
ベリサリオスが細い目をさらに細めて訪ねても、ナルセスの様子は変わらない。
「それを尋ねる相手は私じゃないだろう。なに、彼女の実力なら私が保証するさ。ライオンを素手で投げ飛ばす女傑だぞ。エトリリア中を探しても、数えるくらいしかおるまいよ」
褒められたのが嬉しかったのか、アンナが照れ笑いを浮かべている。ウィレムは腹の奥の方にむずがゆい不快なものを感じ始めていた。
「先程は申し訳ありませんでした。僕の従者が大事な進物を駄目にしてしまって」
「気にしないでくれ。陛下への献上品だったが、彼女の勇姿を見れば、陛下も満足してくださるだろう」
当てつけのつもりで口を挟んだが、全く相手にされなかった。むしろ、自分の狭量さを思い知らされて、惨めさが募るだけだった。
黙るウィレムに代わって、それまで静かだったアンナが話しに加わった。
「お褒めいただき、恐悦の至りです。ナルセス様こそ、見事な一突きでした。是非とも、お手合わせ願いたいものです」
「それこそ、闘技会ならば多くの猛者と手合わせ出来よう。勿論、私も出場する」
遂にアンナまで加わって、武術談義が始まる始末だ。居た堪れなくなったウィレムが立ち上がると、オヨンコアが腰を上げようとした。その動きを制し、武術談義に花を咲かせる知人たちに軽く頭を下げる。
「アンナが闘技会に出場したいというなら、止める理由はありません。僕は長旅で少し疲れてしまったようなので、外の風に当たってきます」
そう言うと一人、部屋を出た。
今は一人になりたい気分だった。ナルセスを見ていると、自分の浅ましい所ばかりが見せられてしまう。そのことを嫌うこと自体が酷く卑しいことに思えた。
少し頭を冷やそう。ウィレムはマレイノス屋敷のきらびやかな廊下を、一人、入口に向かって歩き出した。