第36話 お姉ちゃん最強
ウィレムはアンナを探して、フォーカス屋敷を駆け回った。
アンナが訪ねてきた時、ウィレムの身体の上にはオヨンコアが馬乗りになっていた。あの瞬間に鉢合わせたのは、不幸な巡り合わせとしか言いようがないが、その結果、彼女がおかしな誤解をしているのは疑いようがなかった。早く会って、釈明しなければならない。
二階の回廊に差し掛かった時、不意にウィレムを呼び止める者がいた。声のした方を見ると、テレーザが中庭を見下ろせる窓際で手招きしている。彼女の目元はさも愉快そうに緩んでいた。
屋敷の構造もよく知らないウィレムは、彼女にアンナの行方を尋ねてみる気になった。少なくとも、どこに何の部屋があるかぐらいは聞いておきたい。
「許可なく家を散策するのはマナー違反よ。今更、探検ごっこでもないでしょう」
「そのことは謝るよ。でも、これには理由があるんだ」
青息吐息のウィレムに対し、テレーザはどこまでも楽しそうに顔をほころばせる。今にも踊り出しそうに、つま先が床を拍っていた。彼女がこんな風に上機嫌の時は、良くも悪くも何か企みがあると相場が決まっている。ウィレムは用心深く次の言葉を待った。
「アンナのことでしょう。赤髪の美女が泣きそうな顔で屋敷中を右往左往しているらしいわよ」
ウィレムは思わず天を仰ぐ。やはり、アンナはいらぬ誤解をしているようである。一刻も早く見つけ出して、慰めと弁明の言葉を伝えなければならない。
焦るウィレムには見えていなかったが、テレーザは笑いを堪えながら、時折中庭に視線を落としていた。彼女の笑みが何を意味しているか、ウィレムには見当も付かなかった。
こうしてはいられない。その場を立ち去ろうとしたウィレムの襟をテレーザが後ろから掴んだ。喉を絞められる格好になったウィレムは、無様に咳き込む。
恨めしそうに振り返り、涙目でテレーザをにらみつけた。
「ごめん、ごめん。まさかそんなに絞まるなんて思わなくて。それより、探し物っていうのは、じっと待っていると勝手に戻ってきたりするものだと思わない」
彼女が自信満々に言うと、ウィレムもそんな気がしてくるから不思議である。
「だから、それまでお姉ちゃんとお話ししましょ」
いかにも怪しい申し出であった。だが、断ろうにも、テレーザの顔はそれを許すようには見えない。不本意ではあったが、従うほかなかった。
「それで何を話すの。僕らの事情も、フランデレンの様子も、あらかた話したよ」
程々に話し相手をして、適当な所で切り上げよう。ウィレムは渋々話を振った。
「私、初めて三人を見た時から、ずっと訊いてみたいことがあったのよね」
思わせぶりな言い回しに不吉な気配が漂う。どんな話が来るのか身構えながら、頭の中で幾つもの選択肢を思い浮かべた。しかし、彼女の問いはウィレムの想定していたどの問いとも違っていた。
「アンナとオヨンコア、ウィレムの本命はどちらなのかしら」
一旦思考が停止し、改めて脳が彼女の言葉を解析し始める。甥の間抜けな呆け顔をテレーザは楽しそうに眺めていた。
「いやいや、二人はそういうんじゃないから。僕らは重要な旅の途中なんだよ」
「あんな美女二人に囲まれて、それはないんじゃないの」
テレーザがにやつきながら、ウィレムの腹を無暗につつく。
「私が男なら絶対にほっとかないわ。何なら二人同時に相手して欲しいくらいよ」
鼻息荒く詰め寄るテレーザ。ウィレムはすっかり弱ってしまった。
「僕は婚約破棄までしているんだよ。色恋沙汰に現を抜かすわけにはいかないよ」
必死になって誤魔化しを入れる。この際、さんざん現を抜かしていたことは、なかったことにした。
テレーザが不思議そうに首を傾げる。
「ねえ、よくわからないんだけど、何で恋愛の話に婚約が関係あるの」
細い眉をハの字に曲げ、本当に理解できないといった表情をつくる。
「自分から約束を反故にしておいて、他の子と仲良くするなんて酷いじゃないか」
ウィレムの説明に納得していないのか、テレーザは黙ったまま考え込んでいる。困惑するウィレムには、彼女が何に疑問を持っているかが理解できない。
「わかった。貴方、結婚のこと誤解しているのね。そうに違いないわ」
何事か納得し、何度もうなずくテレーザに対し、今度はウィレムの頭に疑問符が浮く。結婚とは、一組の男女がつがいになることではないのだろうか。それが違うとすれば、結婚とは一体何だというのか。
「結婚はね、家と家を結びつける契約なの。だから、個人の感情は関係ないのよ」
テレーザは断言した。確かに結婚相手は親が決めるのが一般的だし、その結果、家同士のつながりが強くなるのもよくあることだ。それが結婚が政争の道具となる由縁でもあった。
「ああ、言っておくけど、私は違うからね。私はうちの人のこと心から愛しているわ。あの人は強くて格好いい世界一素敵な旦那様だもの」
慌てて言い繕うと、テレーザは照れ笑いを隠しながら、話しを続ける。
「貴方に許嫁がいたなんて初耳だけど、そのことと、貴方が誰かを恋い慕う気持ちは全然関係のないものよ。ランスロやトリスタンだって、とどかぬ相手に、真実の愛を捧げたじゃない」
「そうは言っても……」
急に物語の英雄たちを引き合いに出されても困ってしまう。何より、ウィレムの問題は、その元許嫁がともに旅をする仲間だから、事態は複雑なのだ。
「そんなに世間のしがらみが気になるの」
尻込みするウィレムに、テレーザは口を尖らせた。
「意気地なし。お姉ちゃん、貴方をそんな風に育てたつもりはないのだけれど」
「育てられた覚えもないけどね。だいたい、姉さんは僕にどうしろって言うのさ」
ウィレム自身、自分の気持ちへどう折り合いを付けるかも、アンナとの距離感も、未だ手探り状態なのだ。他人にとやかく言われたくはない。
「そんな情けないウィレムに朗報よ。今日はね、聖ジョルジュの祝祭があるの」
そういえば、オヨンコアがそんなことを言っていた気がする。耳を澄ませると、外から楽しそうな歌声が風に乗って聞こえてきた。
「お祭りではね、老いも若いも、男も女も関係ない。貴族も農民も、皆一緒になって、食べて、歌って、踊るのよ。」
テレーザは強引にウィレムの身体を回転させると、跡が残りそうなほど思い切り背中を叩いた。
「さあ、今すぐ二人を誘って祭りに繰り出しなさい。二人は中庭で貴方を待っているわ。一緒に踊って、同じものを食べて、普段の憂さを存分に晴らすのよ」
釈然としないまま、勢いに押し切られたウィレムは階段の方へと歩きだした。