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第35話 女は度胸

 アンナは服の裾をはためかせて、フォーカス屋敷の廊下を足早に通り抜けた。目的地があるわけではなかったが、ウィレムの部屋から少しでも離れたかった。

 ウィレムの部屋でアンナが見たものは、寝床に横になるウィレムと彼に馬乗りになるオヨンコアの姿だった。あれほど身体を寄せ合って、二人は何をしていたのか。その答えに疑問の余地がないことは、アンナであっても重々承知していた。

 ウィレムの硬い表情が全てを物語っていた。


 思い出すだけで顔が火照りだし、心がささくれ立つのがわかった。

 あの扉を開けるまでは、こんな憂鬱な気持ちではなかったのに。

 テレーザに連行された先で、アンナは身包(みぐる)みを剥がされ、女中たちに身体の隅々まで洗われた。その後、何着もの衣装を着せ替えられ、髪を整え、化粧までさせられた。着飾ることに無頓着(むとんちゃく)だったアンナには、本当に面倒な時間だったが、白銅鏡に映った自分の姿を見た時には、そんな気持ちは全て吹き飛んでしまった。



「素敵だわ、アンナ。女はね。力だけじゃダメ。美貌で相手と戦うの。男にも、他の女たちにも、これが私よって見せつけるのよ」



 耳元でささやくテレーザの声も、後ろに控えている女中たちのさえずりも、耳に布が被せられているようにかすんでと聞こえた。

 ウィレムは気に入ってくれるだろうか。そう考えた時には脚が独りでに動きはじめていた。


 あれほど弾んでいた気持ちが、今はどこかに消えてしまっている。期待は裏返り、失望と浮かれていた自分への羞恥が心に沈殿していた。

 ウィレムの部屋になど行かなければ良かった。後悔の念が身体中に巻き付く。

 だいたい自分は何を期待していたのだろうか。

 着飾った姿をウィレムに褒めて欲しかったのか。

 何を勘違いしているのだ。私は剣になると誓ったのに。

 心の奥底に仕舞い込んだウィレムへの思いは、いとも容易(たやす)く首をもたげる。

 何度同じ失敗をすれば気が済むのだろうか。



「覚悟が足りないのよ」



 胸に刺さったマリアの言葉が、傷口を()ね回す。

 やはり自分には騎士など勤まらないのか。その考えに至っても、ウィレムの側を離れる決断がどうしても出来なかった。


 重い脚を引きずりながら、アンナは屋敷中を彷徨(さまよ)った。自分が何処にいるかもわからなくなっていたが、じっとしていることは出来なかった。

 不意に強い光帯が目に差し込み、アンナは顔を上げた。

 気が付くと左手に中庭が広がっており、スミレに、キンポウゲに、ヒヤシンス、春の花々が一面を彩っている。誘われるように踏み込むと、花に囲まれた可憐な女性の姿が目に入った。



「あら、アンナさん。奇遇ですね」



 花を背に立ち上がったオヨンコアは軽く会釈(えしゃく)すると、穏やかな笑みを投げかける。一方のアンナは身体が強張り、顔がひきつる。



「さっきはごめんなさい。私、二人の邪魔をする気はなかったの」



 声にいつもの張りがない。面目なさ気にアンナは身体を小さくした。

 借りてきた猫のようなアンナの態度から何かを心得たのか、オヨンコアの笑顔が愉快そうな訳知り顔へと変貌する。



「本当に邪魔な人。もう少しでご主人様のご寵愛(ちょうあい)にあずかれる所だったのに」



 煮詰めた蜂蜜のような甘くまとわりつく声。強く優しく相手を(から)め取り、身も心もがんじがらめにして身動き取れなくさせる。



「ワタシ、ご主人様しか頼れる人がいないの。ワタシはまだ生きなくちゃいけない。だから、あの人に気に入って頂くためなら、何だってするわよ」



 オヨンコアの細い指がアンナの頬をなぞり、震える赤い唇にやさしく触れた。



「わかるわよね。アナタは邪魔なの。剣にこんなお化粧は不要でしょう。自分の立場をしっかりと理解して欲しいものね」



 本物の毒は人を殺すが、言葉の毒は心を殺す。徐々に染み渡り、内側から人を破滅させるのが言葉の毒だ。だが、人によって毒の表れ方も様々である。時には毒が裏返ることだってある。

 アンナの中に、ちりちりと()ぜるものが生まれていた。小さいが無視出来ない、()(むし)りたくなるような(わずら)わしい気持ち。嫉妬とは少し違うような気がした。

 オヨンコアの自分に対する言葉は全て正しい。アンナ自身同じ事を考えていた。しかし、ウィレムに対する彼女の態度は気に食わなかった。彼女は自分が生きるために、ウィレムが必要だと言った。だから自分の全てを使って彼を籠絡(ろうらく)するのだと。そこにはウィレムの気持ちなど一片たりとも考慮されていないではないか。


 アンナは自分の顔を撫でる柔らかな手を振り払った。オヨンコアは水晶の瞳を見開いて、アンナを見つめ返す。アンナの顔に怯えの色はなく、端正な瞳は真っ直ぐに相手を捕らえていた。



「貴方はウィレムさまにふさわしくない」

「それこそアナタが決めることじゃないでしょう。いつまで許嫁(いいなずけ)のつもりなの」



 急な反撃にもオヨンコアは怯まない。さらに一段と語気を強めた。

 アンナとオヨンコア、二人の視線が交わり、火花を散らしてぶつかりあう。



「そうよ。ワタシはウィレムさまの剣。どんなものからも主人を守る。そう、貴方の魔の手からだって、守ってみせるわ」



 その時、ウィレムの(あずか)り知らぬ所で、彼をめぐる女同士の戦いが火蓋(ひぶた)を切った。

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