第34話 男は苦境
交渉後、いつもの朗らかな顔に戻ったテレーザは、ウィレムの両隣に座る二人の女性に目を向けた。頭の先から足の先まで、何回も視線を上下される。先程のやりとりの所為か、アンナは未だに身体をびくつかせており、オヨンコアは目の端で彼女の動きを捉えながらも、興味なさ気に外を眺めていた。窓の外からは農民たちの賑やかな声が聞こえてくる。
一通り二人をねめまわした後、テレーザは何事か了承したように、一人で何度も頷いた。
「ウィレム、貴方どういうつもりなの。二人ともすごい美人さんじゃない。それをこんな格好させているなんて、言語道断よ」
交渉中と同じか、或いはそれ以上の剣幕にウィレムはたじろぐ。
二人の身なりは確かに粗末なものだった。
アンナの身に着けている赤い鎧は、胸当てや籠手に傷が目立ち、接合部は煤けていた。あれほど輝いていた茜色の髪も、今は幾らかくすんで見える。
オヨンコアに至っては、人買いの所にいた時の汚れた貫頭衣と、頭に巻いた地味な帯のままだった。
「女の子っていうのはね、綺麗になるために生まれてくるのよ。男たちが武を競いたがるように、女は美しさを求めるものなの。それなのに、女の子にこんな格好させているなんて、これはもう大罪よ」
けたたましく捲し立てられ、申し開きをする暇もない。ウィレムは口を閉じ、浴びせ掛けられる言葉の雨に耐えることだけを考えた。
「そうだわ。貴方たち、調度良いから、今夜は泊まっていきなさい。それがいいわ。そうと決まれば、アンナとオヨン、二人は私と一緒に来なさい。飛び切り素敵な衣装を用意してあげる」
そう言うと、テレーザは手を拍って女中たちに合図した。女中たちはアンナとオヨンコアを取り囲み、脇を抱えて部屋の外へと連れて行く。アンナの目が一心に助けを求めていたが、ウィレムには「ごめん」と口の形をつくるのが精一杯だった。
昔からテレーザには悪魔が憑くことが度々あった。こういう時には、生け贄を捧げて、嵐が去るのを待つしかない。それが、ウィレムたち兄弟の共通認識だった。
そんなことがあったから、ウィレムは一人、与えられた部屋で横になっている。
アンナとオヨンコアには悪いことをしたが、今は二人の健闘を祈るしかない。取って食われるということはないはずだ。
人が入ってきた気配を感じ、ウィレムは身体を起こした。
扉の前にオヨンコアが立っていた。見違えるような彼女の姿に、ウィレムは息を呑む。膝下まで丈のある白いチュニックは腰の辺りが身体に沿って細く閉まり、胸や尻の女性的な線を強調している。櫛の入った豊かな髪は頭の左右でそれぞれまとめられ、頭頂部では灰色の耳が天に向かって真っ直ぐに立っていた。
「テレーザ様にお召し物を頂きました。どうです。ワタシの格好、似合っていますか」
オヨンコアは、ウィレムの前まで歩いてくると、服の裾を持ち上げて浅く叩頭して見せた。小さな丸い膝がちらりとのぞく。
「すごく魅力的だよ。君に服を用意出来なかった僕は、本当に煉獄行きの大罪人だ」
期待通りの答えに満足したのか、控えめに笑ったオヨンコアは、そのままウィレムの側に寄ってきた。
「お気に召して頂けたようで光栄です。ワタシ、ご主人様のお願いなら、どんな格好でもして見せますよ」
寝床の縁に腰を下ろすと、上体をウィレムの方へとあずける。手を伸ばせば触れられる場所に、オヨンコアのなまめく肢体があった。
「そういえば、耳が出ているけど大丈夫なの」
彼女を正視しないようにしながら、ウィレムは苦し紛れの言葉を吐いた。
そんなウィレムの様子を察し、オヨンコアの目が細くなる。
「テレーザ様が、今日はお祭りだから大丈夫だと仰っていましたよ。おかしな格好をする人間もいるから、目立たないだろうと。なんなら、少し触ってみますか」
オヨンコアの顔がさらに近づく。彼女が入ってきてからというもの、部屋の空気が密度を増したような気がする。襟首に指を入れ、横にふって隙間を広げてみたが、息苦しさは変わらなかった。
「もっと、近くで、じっくりと、見て下さってもよろしいんですよ」
寝床に上がり込んだオヨンコアは、今や、ウィレムの膝の上に馬乗りになっていた。退こうとすると、背中に壁が当たっている。ゆっくりと、だが確実に、獲物を追い込む獣の如く、オヨンコアが覆い被さってくる。
改めて近くで見ると、異国的な美しい顔立ちに目を奪われる。彫りは浅く、額から垂れる真っ直ぐな鼻筋の下には、小さな口。唇の間から思いのほか鋭い犬歯が見え隠れする。瞬かせる瞳は水晶でできていた。
互いの息づかいが聞こえそうな距離で、二人は見つめ合う。外の物音が遠い世界のことのようにぼんやりと聞こえていた。
軋みを上げながら扉が開き、その音がウィレムを現実に引き戻した。
音のした方を見ると、美しく着飾ったアンナが呆気にとられて立ち尽くしていた。赤い服には袖がなく、膝の少し上辺りで裾がひらひらと揺れる。活動的なアンナにはよく似合っていた。唇には紅を差しているのだろうか、いつになく大人っぽい容貌だった。彼女の美しさには月の女神でさえ嫉妬するのではないかと思える。
三人の視線が交差した。
「えっと、あの、その……、失礼しました」
ウィレムが言葉を選んでいる間に、アンナは顔を真っ赤に染めながら、一目散に部屋を出て行ってしまった。釈明する時間など全くない。
「無粋な方ですね。さあ、続きを致しましょう。ご主人様」
身体を重ねようとするオヨンコアの両肩を押さえて、彼女を留める。本気を出せば腕力で彼女を組み伏せることくらい造作もない。
「ごめん。僕、女性とそういうことをするつもりはないから」
「あら、何でですか。ワタシは一向に構わないのですけど」
オヨンコアが不思議そうに首を捻る。
「僕はこの旅に出る時、大切な許嫁との婚約を破断してきたんだ。相手もきっと了承してくれたと思う。でも、彼女、とても辛そうだったんだ。彼女にそんな思いをさせて、僕だけ他の女性と親しくなるなんて出来ないよ」
少し考えてから、オヨンコアがそっぽを向いた。
「あーあ、ちょっと色目を使っただけで簡単に釣れたから、楽にいくと思ったんですよ。誰に操立てしているのか知りませんけど、損な性分ですね、ご主人様」
オヨンコアの言葉に、今度はウィレムが首を捻る。もしやセサロニカの一件は、全て彼女の手の平の上の出来事だったのではないか。
疑念につられて、うっかり手の力を弱めてしまった。その隙を見逃すオヨンコアではない。ウィレムの両手を強引に振り払うと、顔を一気に近付けた。
驚いたウィレムが目を閉じる。その頬に、しっとりとした温かいものが触れた。オヨンコアは何度か頬と頬を摺り合わせると、細い舌先でウィレムの頬をぺろりとひとなめした。
「今の、何?」
それ以上の言葉が出てこない。呆然としながら、なめられ頬を手の平で押さえる。何かいけないことをされたような気がした。
「安心して下さい。今のはワタシの部族の親愛を表す挨拶ですから。いかがわしいことは何もありませんよ。これ以上からかうと、本当にご主人様に嫌われてしまいそうですからね」
寝床から降りて扉の方へと向かいながら、オヨンコアは悪戯っぽく微笑んだ。