第33話 思い出との折衝
「随分と立派なお屋敷ですね。この敷物もすごく上等なものですよ」
アンナが応接室を見回しながら、椅子の上に敷かれていた織物を持ち上げた。室内の飾り気が薄いながらも、置かれている調度品からは品の良さがにじんでいる。主人の質実な気質をうかがわせる内装だ。
その日、ウィレムたちが尋ねたのはセサロニカ郊外に建つ貴族の屋敷だった。馬を東に走らせて一時ほどの場所にある。教会に頼んでいた知り合いとの取り次ぎがうまくいったのだ。
「ご主人様はガリアの方だと聞いていましたが、ヘレネスにこんなお知り合いがいらっしゃったのですね」
動じた様子を見せないオヨンコアは、屋敷よりもそこに住む主の方に興味があるようだった。
「ああ、実はこの屋敷の奥が……」
言いかけたウィレムの背に、勢い良く突っ込んでくるものがあった。おかげでウィレムは話を続けられず、あやうく舌を噛みそうになる。
「ウィーレム。久し振りじゃない。どうしたの。教会づてに知らせを聞いた時には本当に驚いたんだから」
ウィレムの背中に抱きついた女性は、頭を撫でたり、頬ずりをしたりと、ウィレムを無茶苦茶に弄り回す。取り残されたアンナとオヨンコアは、ただただ呆然と二人を眺めていた。
「いい加減離れてよ。僕だってもう大人なんだから」
「あら、幾つになっても、ウィレムはウィレム。私の可愛い弟よ」
必至に突き放そうとするウィレムに、女性は茶目っ気たっぷりの笑顔で答えた。
「二人とも、紹介するよ。この人はヘレネス有数の名門フォーカス家惣領の奥方で、僕の――」
「お姉ちゃんです」
「叔母に当たる人だ」
「ウィレムのいけず。昔はあんなに私に懐いていたのに。お姉ちゃん悲しいわ」
話に割り込まれる度に、ウィレムは語気を強めた。話しが一向に進まないことへの苛立ちもあったが、そのやり取り事態がどこか懐かしい。
ウィレムの叔母、テレーザ・ファン・フランデレンは、ウィレムの祖父が老年に差し掛かってから生まれた末娘だった。年齢は長兄であるウィレムの父よりも、むしろウィレムに近く、幼い頃、ウィレムを含む兄弟全員が彼女に面倒を見てもらっていた。
五年前、今のウィレムと同じ十八で、曾祖父の代の約束に従って、彼女はフォーカス家に嫁いだ。目の前の彼女は、変わらぬ朗らかさを見せながら、昔は全く感じられなかった落ち着いた色気を漂わせている。
アンナとオヨンコアの紹介が済み、ウィレムの話を一通り聞いた後、テレーザは改めてウィレムの要望を繰り返した。
「つまり、ウィレムは、コンスタンティウムで、ロマノス陛下に謁見したいと。だから、家の人に、そのための渡りを付けて欲しい。そういうことね」
殊更ゆっくり、一言一言確認するように言葉を句切る。テレーザの様子が少し変わったことを気にしながら、ウィレムはその都度うなずいた。
「そうなんだ。流石に下の階層でうちの修道会の名が通用するか、わからないからね。下にも威光が響いているヘレネス王と誼を通じておきたいんだよ」
事が上手く運びそうで、ウィレムの口も自然と軽くなる。闇夜に舟を出すような旅路に一条の光が射した気がした。
一方、対面するテレーザは静かに脚を組み直すと、その勝ち気に吊り上がった目をわずかに細めた。
「ウィレムの要求はわかったわ。それで、フォーカスの働きに対して、貴方はどんな見返りで答えてくれるの」
「見返り?」
聞き返すウィレムに、テレーザがさらなる追い打ちをかける。
「そうよ。謁見するだけといっても簡単ではないの。聖職者とはいえ、どこの馬の骨とも知れない輩を陛下の前に連れて行くのよ。そのことだけで、フォーカス家がどれだけのリスクを背負うか、貴方にわかる?」
血の気が引いていくのがわかった。一度天井を仰いでから、再度眼前の女性に目を向ける。見た目は懐かしい叔母の姿だが、その中身はウィレムの知るテレーザではなかった。
「ガリアとは少し形が違うけれど、ヘレネスでも家門同士の権力争いは幾らでもあるの。貴方を王城へ引き入れたら、家の人は何と言われるかしら。外国の間者を引き入れた? ガリアと裏で通じている? 火種が無くても煙を立てるのが政争というものよ」
その時、テレーザの言葉を遮るように、どん、という重い響きが部屋全体を振るわせた。慌てて部屋に入ってきた女中たちを、テレーザが手を上げて制止する。
「もう我慢出来ません、それが貴方を頼ってきた身内に対する態度なのですか」
机を叩いたアンナが血走った瞳でテレーザをにらみつける。しかし、彼女の熱をはらんだ視線は素っ気なくいなされた。
「アンナ、おやめなさい。お行儀悪いでしょ」
肩透かしを喰らったアンナがさらに食ってかかろうとした絶妙の間で、テレーザの唇が矛を繰り出す。
「今の私はね、ウィレムの頼れるお姉ちゃんとしてじゃなく、フォーカス家の家長代理として、貴方の主人と交渉しているの。わかったら、分を弁えて静かにしていなさい」
アンナに言い返す言葉はなかった。剣など一度たりとも握ったことのないテレーザが、マクシミリアンを手玉に取ったアンナを気圧していた。
「さあ、ウィレム。早く答えなさい。条件が出揃わないと交渉にならないわよ」
土に染み入る雨のような静かな威圧感がその場を支配していた。ウィレムは全身の毛穴が収縮し、毛が逆立つのを感じて、身震いした。
早く答えなければならない。
しかし、渡せるものなど何もなかった。
路銀はポントゥスの穴の底だ。今は宿も引き払い、教会で世話になっている。
フランデレンに戻れば領地もあるが、お世辞にも豊かとは言えない。
権利や権限があるわけでもなければ、爵位も持っていない。
今、ウィレムが差し出せるものなど、何一つとしてないように思えた。
いや、一つだけ、ウィレムが自由に出来るものがある。
「僕だ。見返りは僕自身だ」
応接間の空気がその場の全てを包んで凝固した。
「話にならない」
細い嘆息に乗って、交渉決裂が言い渡される。
「話は最後まで聞くべきだよ。実を言うと、僕たちがタルタロスへ向かうのは伝道のためじゃない。ガリア王ルイ・ド・セーヌ陛下の王命だ。貴方も知っている、あのルイ様だよ」
テレーザは腕組みをしながら、ウィレムの話に耳を傾ける。アンナはどこか不安気に、オヨンコアは取り澄ました態度で、成り行きをうかがっていた。
「この任務を成功させれば、陛下からの覚えもめでたくなる。どんな形であれ取り立てていただけるはずだ。そして、タルタル人とも縁が結べる。ガリア王に近く、タルタル人とも親しい人間と誼を通じることは、フォーカス家にとっても良い話だと思うけど」
黙って聞いていたテレーザは視線をウィレムからそらすと、そのまましばらく宙に泳がせた。
「全部希望的観測ね。ウィレムの考えるようになる保証はないわ」
「そこに賭けるかどうか、判断するのは貴方でしょう。僕がどんな人間か、貴方はよく知っているはずだ」
ウィレムも一歩も引かなかった。どのみち、引いても他に道などないのだ。その時は、覚悟を決めて身一つでタルタロスへ向かうしかない。出任せでも何でも使えるものは使う。
「最後に一つ。ウィレムは何故、そこまでして王命に従うの。誤魔化すことなんて難しくないじゃない。貴方がタルタロスに行ったかどうかなんて、確かめようがないもの」
既にテレーザのなかでは答えが出ているのかもしれない。この問いに答えることで交渉の行き先が変わるとは思えなかった。ウィレムは正直に偽らざる気持ちを放り出した。今まで誰にも伝えていないことだった。
「僕が任されたからさ。これは、ウィレム・ファン・フランデレンならば、使命を全う出来るというルイ様からの信頼だよ。信頼には全霊で答えなくちゃいけない」
答えを聞くと、テレーザを包む圧力が静かに退潮していった。
「壮大な出世払いね。しかも、ひどい信用貸し。いいこと、きっちり耳を揃えて返してもらうからね。利子も込みで取り立てに行くから、それまでに立派な男になってなさいよ」
その言葉を聞いて初めて、ウィレムの肩から力が抜ける。そのまま椅子にへたり込むと、自然と深いため息が漏れた。