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第32話 続・人買い交渉

 右手の指四本。

 それがウィレムとオヨンコアをこの世につなぎ止める最後の支えだった。二人の足下に確かな地面はなく、底なしの大穴が口を広げて待ち構えている。

 断崖を落ちる馬車の荷台から辛くも抜け出したウィレムは、右手を伸ばして崖の縁に手を掛けた。左手は、抱きついているオヨンコアの背中に添えている。


 ウィレムの口から安堵の吐息が漏れた。だが、一命を取り留めたとはいえ、危機が完全に去ったわけではない。二人分の重さを支え続けるのは、右腕一本では限界があった。早く誰かに引き上げてもらわなくてはならない。

 見上げる視界のなか、崖の縁から人売りの店主が顔を出した。



「助かった。店主、僕らを引き上げてくれ。もう腕が限界なんだ」



 助けを請いながらも、ウィレムの心には一抹の不安が蝋燭(ろうそく)の火のように(とも)っていた。男の顔に浮かぶ気味の悪い笑みが、漠然とした危惧を抱かせる。



「なんともお(あつら)え向きな状況になりましたなあ、予想以上の結果ですよ。お客様」



 男の口が糸を引きながら、弓形に吊り上がる。笑みというにはあまりに不快感を催させる形相だった。

 一向に自分たちを引き上げようとしない店主に対し、ウィレムは痺れを切らせて、催促する。



「どうしたんだ。早く引き上げてくれ」

「お客様、今の状況、飲み込めてますか。貴方が生きるも、死ぬも、私の心次第なのですよ」

「なっ、何を言い出すんだ」



 動揺と焦りが舌の動きを妨げる。生殺与奪を他者に握られているという言いようのない恐怖が、肋骨を軋ませて胸を締めつける。



「しっかりしなさい。アナタはワタシの命脈さえも握っているのですよ」



 耳元でオヨンコアが囁いた。小さな身体を震わせていても、声と瞳から力は失せていない。

 ウィレムは改めて彼女の身体を抱え直した。今、自分の腕には彼女の命も乗っているのだ。そう思うとなおさら力が入る。



「せめて、彼女だけでも助けてやってくれないか。お前にとっても彼女の命は大切だろう」



 ウィレムの申し出に、店主は眉をひそめる。



「そんな不良品、どうなっても構いませんよ。物好きな金持ちに高値で売れると思ったのに、気味悪がって誰一人買いやしない」



 苛立(いらだ)たし気に店主の吐いた唾が、ウィレムの横を抜けてポントゥスの大穴へ落ちていった。それを見ていた店主の目が怪しく光る。



「そうだ、良い案を思いつきましたよ。お客様の命とその女の命、合わせて幾らなら支払いますか」



 ウィレムは自分の耳を疑った。言葉はわかるが理解が追いつかない。



「こんな時になんていう話をしているんだ」

「こんな時、だからですよ、お客様。私は根っからの商人なのでね。何だって(あきな)うんですよ。人の命にだって値は付くのです」



 男の目から感じていた冷たさの理由が、今こそわかった気がした。人間だけではない。この世のありとあらゆるものが、この男にとっては取引出来るモノなのだ。もし、この世界に神が実存するのなら、この男は神にすらも値を付けるに違いない。


 肌に粟が浮く。到底理解しがたい男であった。だが、今のウィレムには、彼と取引する以外の選択肢がない。



「わかった。助けてくれたら、僕の持っている銀を半分渡そう」



 男は黙って首を振った。



「なら、三分の二ならどうだ。大層な額になるはずだ」

「お客様、あんた、私をなめてらっしゃるんですか。こっちはお前らの命に値を付けろって言ってるんだ。二人分の命をそんな二束三文で買おうってのか。ええ」



 店主の豹変に、ウィレムはたじろいだ。最早、出し惜しみは出来そうにない。



「全部だ。僕の持つ全財産を渡す。その代わり、代金は後払いだぞ」



 ウィレムの叫びに、店主の顔が初めてやわらいだ。



「良いでしょう。交渉成立ですね。まずはその女から引き上げますから、今しばらく辛抱ください」



 店主が崖の縁に身を乗り出す。

 ウィレムは、自分にしがみついているオヨンコアの背中を軽く押した。

 男の差し出す腕を見上げながら、オヨンコアがウィレムの耳元に口を寄せた。



「先に謝っておきますね。ごめんなさい」



 それからのことは一瞬の出来事だった。

 彼女の小さい手がウィレムの懐へ滑り込み、銀の入った小袋を抜き取る。



「お代の銀よ。受け取りなさい」



 投げ上げられた小袋が宙を昇り、店主の目の前を通り抜ける。慌てて袋を追った店主の脚はそのまま空を翔け、そして、大穴の暗闇に向かって落ちていった。


 結局二人は、駆けつけたアンナによって、崖の上に引き上げられた。

 既に辺りは茜色に染まっている。



「何であんなことをしたんだい」

「あら、謝罪なら先に済ませたつもりでしたけれど」



 オヨンコアは何事もなかったかのように、言い放つ。



「あのままだったら、一時助かったとしても、身ぐるみ剥がされて穴へ逆戻りというのが関の山です。あの男はそういう盗賊まがいの商売を繰り返していたんですよ。お人好しのご主人様」

「ご主人様? 誰のことを言っているんだい」



 首を傾げるウィレムに、オヨンコアは微笑みながら答えを返した。



「お忘れですか。アナタは、あの男にワタシの命の代価を支払ったではありませんか。だから、アナタはワタシのご主人様です。末永くよろしくお願いしますね」



 彼女はその場で(ひざまず)くと、合わせた両手を新たな主人の手の平の上に重ね、深々と頭を下げた。

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