第30話 飛び込むは罠の中
馬を走らせているというのに、先程から周囲の景色は一向に変わらない。右手に底なしの大穴を臨みながら、ウィレムたちは馬を急がせている。ポントゥスの大穴の縁、断崖を臨む老木の下がマクシミリアンの指名した場所だった。
鞭を持つウィレムの手に力が入る。人質に取られた人々のなかには、オヨンコアも含まれていた。彼女の安否を確かめたい。それが、ウィレムの偽らざる気持ちだった。
遠景に、絶壁の上に生える一本の老木が見えた。枝に葉はなく、大穴に向かって吹き込む風に、木肌を晒している。老木の下に大岩の質量を有する大男が直立していた。マクシミリアンの周囲に他の人影は見受けられない。目標を視認し、ウィレムは再度、馬の尻に鞭を入れた。
「待ちかねたぞ。ウィレム・ファン・フランデレン」
一行を見つけるなり、マクシミリアンはけたたましい怒声を浴びせかけた。まだ幾らか距離があるというのに、音の波が怒濤となってウィレムの身体に打ち付ける。
「貴方の臨み通り、僕らはここへ来ましたよ。人質は無事なんでしょうね」
ウィレムは馬を下りてマクシミリアンと向き合った。
身に着ける白銀の鎧に見劣りしない分厚い体躯、変わらずの逆立ったブロンド。だが、見た目の印象は以前に会った時と幾らか変わっていた。顔がやつれ、目の下には濃い隈が表れている。それが、元々の迫力に鬼気迫るものを加えていた。
「下賤の者に手など出すものか。皆、荷台のなかに押し込んである」
目を血走らせながら、マクシミリアンが、一歩、二歩と、間を詰める。ウィレムたちと彼の間には、まだ十分な距離があった。大通りを挟んだ端と端、助走を付けても、一飛びでは越えられないほどの間合いである。しかし、それだけ離れているにもかかわらず、マクシミリアンを包む空気がウィレムの身体を強張らせた。
「安心してください。あいつの相手は私がします。その間に、ウィレムさまは人質を助け出してください」
身構えるウィレムの肩にアンナが優しく手を置いた。彼女の落ち着き具合を見ていると、身体の芯から嫌な緊張が抜けていく。
一歩ずつ、静かに近付いてくるマクシミリアンに対し、アンナが一歩前に出る。ウィレムと人売りを後ろに従える格好になった。
「貴方のお目当ては私でしょう。相手になってあげますから、さっさと掛かってきなさい」
アンナは大袈裟に手招きをして、相手を挑発した。マクシミリアンのこめかみに青筋が浮き出し、顔が赤黒く変色していく。目が据わり、アンナの姿を捕らえて放さない。
二人は、残り半歩で互いの間合いに入る所で、足を止めた。
既にアンナは右手に剣を携えている。マクシミリアンは剣の柄を握ってはいるが、抜刀していない。彼の剣は前回の大剣ではなく、見た所、鍔の短い両手剣のようである。
アンナから視線をそらさずに、マクシミリアンが柄を握る手をするすると引いていく。現れたのは何の変哲もない鉄剣だった。しかし、鈍い光沢を放つその刃が、ウィレムに捕らえ所のない不安を抱かせた。あまりに何もないことが、逆に相手の意図を見えにくくしているように思えたのだ。
マクシミリアンが剣を頭の高さで構える。
アンナの突き出した切っ先が、彼女の呼吸に合わせて小さく上下する。その剣が三度目に頂点に達した瞬間、マクシミリアンが剣を振り下ろした。その勢いに乗って、大きく一歩、前方へ踏み出す。
アンナが剣撃を受け止めようと、自分の頭上で剣を寝かせた。
開戦の一合目と思われた刹那、アンナは後ろ足を身体に引きつけて半身になった。彼女の身体に沿うように、マクシミリアンの頭上から紫電が掛け落りる。一撃から一拍、辺り一帯を地響きが襲った。剣撃を受けた乾いた大地には、無骨な裂け目が生まれていた。
すぐにアンナが距離を取る。剣を引きずりながらマクシミリアンが後を追った。
走りざま、アンナがウィレムに目配せした。敵を引き離すという合図である。
二人が十分に離れたことを確認すると、ウィレムは馬車へと駆け寄った。幌を開けて荷台をのぞく。数人の男女が身を寄せ合っていた。
「全員無事かい。助けに来たよ」
荷台に乗り込んでみると、なかにいるのは老人や子ども、女性が多かった。一人一人に励ましの言葉を掛けながら、ウィレムはオヨンコアを探した。
「アナタ、何で来てしまったんですか」
聞き覚えのある声に叱責され、ウィレムは荷台の奥へと目を向けた。ウィレムの入ってきた側の反対、御者台に近い方の端で、オヨンコアが身体を丸めていた。
「良かった、無事なんだね。君が酷い目にあっていないか心配だったんだ」
他の人質を避けながら、ウィレムは彼女の前まで寄っていった。
「思っていた以上にお人好しなんですね。それに、用心も足りないみたい」
オヨンコアの口からは辛辣な言葉が続く。助けに来た者への態度とは思えない。そして、何より不思議だったのは、今までの片言と違い、彼女が流暢なエトリリア語をしゃべっていることだった。
「君、ちゃんとしゃべれたのかい」
「あんなの、セールス・トークの一環です。やっぱり騙されていたんですね。そんな風だから、今回も騙されて、こんな所までのこのこ出てきちゃうんですよ」
彼女の言葉の意味を掴み損ね、ウィレムはその場で硬直した。ただただ、彼女の宝石の瞳を見つめたまま、呆然と立ち尽くす。
その時、再び巨大な地鳴りが起こり、馬車の荷台が傾いた。人質となっていた人たちが、我先にと幌の外へ逃げ出し始める。静まる気配のない揺れのなか、荷台は確実に崖下の方向へと傾いていった。
考える余裕はない。ウィレムはオヨンコアの手を取ると、人のいなくなった荷台を入口に向かって走った。既に荷台の角度は地面に対して直角に近くなっている。荷台の入口からは空が見えていた。
あと少し。
傾く床を蹴って、ウィレムは外に飛び出した。伸ばした指先が二、三度宙を掻き、崖の縁に辛うじて引っかかる。
馬車は音もなく、大穴の底目掛けて落ちていったが、ウィレムには下を見る心の余裕は残っていなかった。