第29話 刺客再び
人買いの交渉を断って数日、店主がウィレムの泊まる宿を訪ねてきた。あの日以来、オヨンコアのことが頭の片隅から離れなかったウィレムは、彼が部屋に飛び込んできた時には、質の悪い悪戯を食らったような心境だった。心臓が口から飛び出していないか、確認する必要を感じたほどだ。
「お客様、助けてください。私の、私の商品たちが」
店主の狼狽え方は尋常ではなかった。水でも被ったように額から汗を流し、荒い呼吸を繰り返す。話していることは支離滅裂で、全く意味が伝わってこない。
なんとか店主を落ち着かせ、詳しい話を聞いた所、売り物の人間を何者かに奪われてしまったらしい。奪っていったのは白銀の鎧を着た大男だったということだ。
「あの男、店に入るなり、赤髪の女騎士を連れた僧衣の男が来なかったか尋ねるんです。お客様のことを話したら、自分の所に二人を連れてこいって言うんですよ。それまで商品を預かると言って、一方的に」
大男は馬車ごと“商品”を連れていき、制止に入った警備兵たちも相手にならなかったという話しだ。
ウィレムとアンナは顔を見合わせた。
「その大男、眉が太くて、髪が鶏冠みたいに逆立った、目が大きな、やたらと怒鳴り散らす男でしたか」
「その通りです。よくご存じで。やっぱりお客様の知り合いなんですね」
ウィレムの問いに、店主は頭を激しく振って頷いた。話しの通りなら、相手はウィレムたちの知っている人物ということになる。
「マクシミリアンでしょうね。あの男、こんな所まで追ってくるなんて」
ウィレムもアンナと同意見だった。
旅の初日にガリアで襲撃してきた時、アンナにこてんぱんにのされて以来、顔を見ていない。てっきり、追跡は諦めたとばかり思っていた。意外だったのは、他人を巻き込んだり、人質を取るようなことをする人間には見えなかった点である。それほどまでにウィレムたちを捕らえたいのだろうか。
「お願いします。手を貸してくださいよ。このままじゃあ、私、廃業だ。明日からどうやっておまんまに有り付ければいいんですか」
店主は情けなく崩れた顔をさらしながら、泣き付いてきた。鼻が詰まっているのか、こもった声が気に触る。
「それに、お客様のお気に入りだった女も連れて行かれたんですよ。心配じゃないんですか。この薄情者」
店主に言われるまでもなく、ウィレムが最初に案じたのは彼女のことだった。獣の耳や尾が着いているのである。魔女だ、人狼だと言われて、むごい扱いを受けているかもしれない。最悪の場合、命さえ奪われかねい。
直ぐに助けに行きたいと焦れる一方で、急ぐ心を引き留める自分もいた。
マクシミリアンの目的は、ウィレムたちの身柄の確保だろう。それを拒めば、戦いになるのは必至だった。そうなった時、彼と戦うのはアンナである。いくらアンナが強いといっても、人質のいる状態でマクシミリアン相手と戦うことが出来るのか。まして、他の女性のために戦ってくれなどと、言えるわけもない。
隣に立つアンナは、いつもより落ち着いていた。苛立つでも、憤るでもなく、顔色一つ変えずに話しに耳を傾けている。その瞳には、涼やかささえ感じられた。
「どうしよう、アンナ。君の考えを聞かせてくれないか」
あまりに彼女が頼もしく見えたため、つい、意見を求めてしまった。
「私はウィレムさまのお考えに従いますよ。あなたが戦えとお命じになれば戦いますし、逃げると仰るなら露払いをするだけです。あなたの思うようになさってください」
「だけど……」
ウィレムはそこで言い淀む。アンナの鋭い視線に射貫かれて、それ以上言葉が出なかった。
「私の望みはただ一つ。あなたのお側に置いて頂くことだけです。それさえ叶うならば、例えあなたの気持ちが他の方に向いたとしても、構いません。私はただの剣なのですから。あなたは命じるだけで良い。あなたも、あなたの大切なものも、全て私が守ります」
いつもの浮ついた調子はどこにもない。切実な思いが言葉に力を与えていた。
ウィレムにとっては主従関係などアンナと一緒にいるための方便に過ぎなかったが、彼女にとってはもっと重みのあるものだったのだろう。ウィレムの隣にいたい。そのささやかな望みを叶えるために他の全てを捨てて彼女が出した答えが、主人と騎士の関係だったのだ。彼女のなかに多少の甘えが残っているとはいえ、真摯な気持ちに対して、自分を顧みると胸が痛かった。今の自分は彼女の意を汲んでやることでしか、応えることが出来そうにない。
「わかったよ、アンナ。僕は連れて行かれた人たちを助けたい。力を貸してくれ」
ウィレムの言葉に、アンナは深く頭を垂れた。左胸のブローチに手を添える。
「頂いた胸飾りに誓って、必ずや、御心を叶えて見せます」