第2話 謁見
ウィレムは王宮に入ってからというもの、気圧され続けていた。
回廊を飾る絢爛豪華な装飾は、明かり取りからの細い光を受けて、その姿を浮かび上がらせていた。冷たい石の廊下は、どれだけ気を付けても、足音を辺りに響かせた。
そして、目の前の扉を抜ければ、その先が謁見の間である。ウィレムは小さく咳払いをすると、意を決して中に入った。
長方形の部屋の奥に空の玉座があり、その隣に初老の男が立っていた。玉座の正面にも一人、ぼろをまとった男が、片膝をついた姿勢で控えている。
扉の前で突っ立っているウィレムに気付いたのか、初老の男が軽く会釈した。顔には深い皺がより、頭の中ほどまで禿げあがっていて、残った毛には白いものが多く混じっている。
ウィレムは促されるままに玉座の前まで行くと、ぼろの男に習って膝をついた。
誰も喋らない。嫌な沈黙が続いた。
ウィレムが三度目の唾を呑みこんだ時、人が歩く気配がした。その気配が玉座の前で止まると、部屋の空気が一気に張り詰める。
「久しいなウィレム、頭を上げよ」
金属音を思わせるよく澄んだ声は、記憶の中のそれとは幾分か違っていた。
時の流れを感じながら、恐る恐る頭を上げる。
一瞬、ウィレムは奇妙な錯覚に襲われた。うす暗かった部屋の中がにわかに明るくなり、白む視界の中心に王が悠然と立っているように見えたのだ。
王の格好はけして華美なものではなかった。装身具もほとんど身に着けず、普段の服装と言ってよい。むしろ、正装しているウィレムの方が、上等な服を着ているかもしれなかった。
それでも、そこにあったのは紛れもなく“王”の姿だった。太陽の無慈悲な輝きと、月の冷ややかな美しさを備え、無条件に人を平伏させる威光を放っている。
その涼やかな青い瞳に囚われれば、何人も抜け出すことは出来ないだろう。引き付けられて離れがたく、ウィレムは自分が瞳だけの生き物になった気さえした。
「おい、ウィレム。聞こえているのか」
朦朧とした意識を裂いて、王の声がウィレムを現実に引き戻した。その場にいた全員の視線がウィレムに集まっていた。
「も、申し訳ございません。いと尊き我が王よ、ご尊顔を拝し恐悦至極でございます。ウィレム・ファン・フランデレン、お召に従い参上致し……」
「その手の挨拶はいらん。退屈な口上などまっぴらだ」
お決まりの挨拶に、ルイは顔をしかめた。
「それにな、余と其方は共に馬を駆った仲ではないか。他人行儀を気に食わん。昔のように余の名を呼んでも構わんのだぞ」
初老の男の顔が険しくなる。当然だ。普通なら王が臣下に、しかも、小領主に対して許す態度ではない。ウィレムにしても、素直に従って良いのか考えものだった。名を呼べば不敬に当たるやもしれず、呼ばなければ反逆である。
「そういう訳には参りません。幼少のみぎりにはたらきました数々のご無礼、どうかご容赦ください」
「余の命に従えぬのか」
辛うじて絞り出した返答は、ルイの冷たい一声で敢えなく拒まれた。こうまで言われては、従う他に道はない。
「それではルイ様とお呼び致します。それで、本日はどのようなご用件でございましょうか」
まさかアンナの言ったように昔話がしたい訳ではないだろう。王の気分が変わらないうちに要件を聞き出すのが肝要に思えた。
「うむ、其方、タルタル人は知っているか」
ルイの口から出た言葉に、ウィレムは戸惑った。
タルタル人とは、塔の階下に住むという野蛮人で、時折境界を越えてこちらの世界に現れることもあるという。定まった住居を持たず、獣を従え、あちこちを移動しながら生活している。
ウィレムの父親の話では、ゲルマニアやダキアに侵入した時には、蹂躙に次ぐ蹂躙で、彼らの通った後には屍の山しか残らなかったという。
何故、その名が王の口から出たのか、怪訝な顔をするウィレムに対し、ルイは言葉を続けた。
「其方には、タルタル人の住処、タルタロスまで、余の親書を届けてほしいのだ」
変わらずに澄んだルイの声が、しかし、ウィレムの耳に重苦しく響いた。
「何故、そのような所へ……」
思わず疑問の声が口をついた。ウィレムは慌てて口を手で塞いだが、遅かった。臣下が王命に疑問を抱いて良いはずがない。ただ黙して従うのが臣下の務めだ。
だが、返ってきたのは叱責ではなかった。
「もっともな問いだな。其方に免じて答えてやる。タルタル人は厄介な相手だが、当面の敵ではない。今我らが戦うべきは、ヴァンダルスを占領し、南方のバルコニーを我が物顔で跋扈する“アルハの狂信者”どもだ。奴らを一掃せねばならん」
一旦言葉を切り、一拍置いてから、忌々しげにルイは続けた。
「だが、余には奴らと十二分に闘うだけの力がない。このガリアでさえ、余に不満を持つものが山程いる。今の余に必要なのは強大な協力者だ」
「陛下――」
初老の男が、主君を諫めようと、声を発したが、ルイは鋭い視線でそれを制した。男は渋々と口をつぐんだ。
「つまり、其方には同盟の使者として、タルタロスへ向かってもらいたいのだ。同盟が成った暁には、余は、十字軍を決行するぞ」
蛮夷との同盟に、異教徒との戦い。あまりに予想外の言葉が続き、ウィレムは呆然とルイを見つめ返すことしか出来なかった。理解が全く追い付かない。
「まさか、余の命がきけぬとは、言わんよな」
不敵な笑みをたたえるルイに、ウィレムは黙って頭を垂れた。