第26話 再考人買い問答
「ダイジョウブですカ。おケガは、ありませんでしたカ」
昨日の女性の声が耳に蘇る。
宿屋の二階、木の梁が剥き出しになった天井を見上げながら、ウィレムは寝床の上で横になっていた。
昨日、人売りの馬車のなか、倒れたウィレムを受け止めたのが彼女だった。ウィレムは彼女に膝枕されるような格好になった。
灰色がかった髪の束が、肩から落ちて、ウィレムの顔に垂れる。彼女は慌てて、その髪をかき上げた。
鼻筋がすっきりと通った整った顔立ち。愛嬌のあるつぶらな瞳を、長く伸びたまつげが飾っていた。魅力的な容姿に反し、着ている物は粗末な貫頭衣の腰をひもでしばったもので、髪の毛をくすんだ帯で束ねられていた。
彼女が控えめに口角を上げた。
その笑顔を見ると、急に額から汗が出始めた。動悸が起こり、妙な興奮が胸の奥から込み上げる。すぐに立ち上がると、挨拶もそこそこに、ウィレムは馬車から飛び出し、逃げるようにして、広場まで戻ってきたのだ。
思い出しただけで、顔が熱を持つ。アンナに対する気持ちとは別の、正体のわからない高揚が胸を突き上げる。気を紛らわすため、ウィレムは寝返りを打った。
昨晩から、ウィレムの頭を離れない考えが、一つあった。
人売りの馬車に乗っていたということは、彼女も“商品”なのだろうか。金銭や別の品物と交換される存在なのだろうか。それは、代価を払いさえすれば、誰でも彼女を手に入れることが出来るということだ。
自分の底の方で、先程までとは異なるもっと黒々とした感情が、嵩を増していくのがわかった。その感情が自然と舌を動かした。
「僕でも、彼女を買うことが出来る」
口に出してから、直ぐに頭を振った。
自分の声で言葉にすると、堪らなく気持ちが悪い。微かな高揚はありはすれども、それを大きく上回る不快感。腹の中のものが逆流してきそうなほどの嫌悪感。
人買い・人売りなど、ガリアでも普通に行われていたことである。
今までは、気にならなかった。
いつから自分は変わったのか。
「人を、買うのかい」
アルベールの言葉が、確かな実感を伴って、突き刺さる。
そして、教会の女性たちの怯えた瞳が、自分に向けられる。
人を買う、人を物として扱うということは、自分もあのフォースタス司祭と同じになるということだ。それはどうしても嫌だった。
同時に、小賢しい言い訳を並べ立てる自分もいる。
彼女を買うのは彼女を救うためだ。取引の後、彼女を自由民にしてやれば良い。そうすれば、彼女はあの汚い場所から解放され、明るい世界で生きられるのだと。
だが、どんな理由を持ち出そうと、ウィレムが彼女を買うことに違いはない。それは、人間をモノとして扱うことをウィレムが肯定したということだ。突き詰めれば、自分自身をただのモノとして扱う、ということでもある。
そんな一人問答を続けながらも、ウィレムのなかで、彼女にもう一度会いたいという気持ちが、消えることはなかった。
扉を強く叩く音がして、ウィレムは我に返った。
返事をするよりも先に扉が開き、アンナが勢い良く入ってきた。
「ウィレムさま、ご機嫌はいかがですか。よかったら昼食にでも出掛けませんか」
アンナの無垢な姿を目にすると、ウィレムの胸には、罪悪感という名の小さな棘が、何本も刺さった。棘は皮膚を突き、肉を裂いて、臓腑に深い傷をつける。それでもまだ、膝枕の彼女に会いたいのだから、愚かしい。
「もうそんな時間か。僕は別に訪ねる所があるから、アンナは先に食べていてよ」
「それなら、私もご一緒します。用事が済んだら、二人で昼食にしましょう」
アンナは掛けてあった外套を取ると、上体を起こしたウィレムにそれを渡した。
昨日、広場で再会した時、体当たり気味に抱きついてきたアンナは、目を赤くし、鼻水を垂らしながら、二度とウィレムの側を離れないと宣言した。それ以来、彼女はウィレムの側を離れなくなっていた。最早、手を握ることも躊躇せず、人の多い所では、ウィレムの腕を掴んで放さなかった。
その時の顔を思い出すと、自分の不埒な考えが申し訳なく、居た堪れなくなる。
「いや、やっぱり、用事は後でいいよ。昨日、美味しそうな屋台を見つけたんだ。そこへ行ってみよう」
ウィレムは寝床から降りると、促すように彼女の背を押して、部屋を出た。