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第23話 空と穴

 頭上には、底なしの空が広がっている。どこまでも墜ちていきそうなほどに澄んだ空を見上げながら、ウィレムはため息を吐いた。老馬の引く荷馬車は、彼らを乗せた荷台をがたごとと揺らしながら、街道を進んでいく。

 大エトリリア時代に整備されたと思われる石畳は、その後誰も手入れしていないのか、所々、石が剥がれていた。それでも、石の間に雑草が生えていないのは、頻繁に人が往来するからだろう。


 マリアたちと別れて数日、ウィレムとアンナは既にヘレネス王国に入っていた。

 教会での一件により、街道の村で足止めをくらった二人は、旅路を急いでいた。途中、休息を取っていた時、行商人に声を掛けられ、今は彼の荷馬車に便乗させて貰っている。引き換えに、アンナが用心棒を引き受ける約束になっていた。


 こうして車に揺られながら、のんびりと雲を数えていると、あの夜の出来事が夢のように思えてくる。

 可憐な少女の姿が、凶暴な化け物に変わった。

 そして最後には、二人の目の前で人間を喰い殺した。

 その様は、お伽噺(とぎばなし)に聞かされた、化け物そのものだった。


 それなのに、とウィレムは思う。

 化け物の姿に成り果てても尚、彼女の心は人のままだった。理性と良識を持ち、喜びを感じ、時には苦悩もする。短い間ではあったが、一緒に旅をして、あの日の晩のやり取りで、少なくともそのことだけは、確かにわかった。


 むしろ内面に関しては、司祭の方が獣じみていたのではないかとさえ、思う。

 若い女性ばかりを捕まえ、動物でも扱うように拘束し、自らの欲望の()け口にする。いらなくなれば、人買いに買い取らせて、私腹を肥やしていた。聖職者として、否、人として許されざる行いである。


 その後、女性たちはそれぞれの家に戻っていった。村人は教会の行為を知りながら、(とが)めることが出来なかったらしい。教会に逆らえば神の祝福は遠のくからだ。

 解放された女性たちのなかには、男性が近くにいるだけで震えが止まらなくなる者、家族であろうと、男性を視界に入れることさえ出来ない者までいた。

 どのような行為に及べば、人をああも変えらるのか、想像したくもない。

 沈んだ気持ちが吐息となって、ウィレムの口から漏れた。


 突然、荷台が大きく跳ね上がった。

 荷物が荷台から落ちないよう、ウィレムは周囲の袋や木箱を必死に押さえた。



「いっ、たー」



 向かいで眠気と戦っていたはずのアンナが、悲鳴をあげる。葡萄酒が満杯に入った酒樽に、額をしたたか打ち付けたようだ。彼女は頭を抱えながら、狭い荷台の中を、転げ回った。


 明るく振る舞っているが、あの夜の一件は、アンナの心にも影を落としているようだった。時折、ぼうと考え込んでいたり、暗い表情をすることが増えた。


 アンナは人を殺したことがない。今までの旅の間でも、相手に致命傷を与えたことは、一度もなかった。それでも十分なほどに実力差があったのだ。ウィレムも、彼女が敢えてそうしているのだと思っていた。

 しかし、真相は違った。殺さないのではなく、殺せない。

 例えウィレムを守るためであっても、相手を殺す覚悟ができない。そのことを、あの日、マリアに看破されてしまった。


 自分ならどうだろうかと、ウィレムは考えた。

 ウィレムも人を殺したことはない。だが、領主の息子に産まれた以上、土地を、そこに暮らす人々を、彼らの生活を守ることが務めだと、教えられてきた。そのためなら、戦いで敵の命を奪うのも、やむを得ないことだ。その覚悟なら、随分前に済ませている。


 だが、アンナはそうではない。

 どれだけ武術に長じていようと、彼女は紛れもなく貴族の令嬢なのだ。戦いの中で命のやり取りをするなど、考えた事もなかったのだろう。

 それは、騎士として、主を守護する剣として、致命的な欠陥ではないだろうか。

 やはり、彼女を説得して、家に帰らせ方が良いのかもしれない。ただし、アンナがその提案を簡単に聞き入れるとは、思えなかった。

 三度(みたび)、ウィレムの口からため息が出た。



「お坊様、今日何回目ですか。そんなにため息ばかりだと、運気が逃げて行っちゃいますよ」



 御者台に座る中年の男性が、見兼ねて声を掛けた。

 柔らかそうな口髭を蓄えたこの行商人は、ガリアで仕入れた毛織物や葡萄酒をヘレネスに運んでいるのだという。



「幸運は下を向いてる人間の所には来ちゃくれませんよ。だからおれたちはこう言うんです。教訓は忘れるな。だが、後悔はブタの餌にでもしてしまえ、てね」



 行商人は大げさな笑顔を作って見せた。

 釣られてウィレムも、口元を緩める。笑うと少し、心が晴れた。



「前を向いてれば、こんなものも拝めますよ」



 馬車がなだらかな坂道を上り終えた。ウィレムの目に飛び込んできたものは、視界を覆い尽くす巨大な穴だ。


 正確には、それが穴であるかは、眼前の景色だけでは判断出来ない。あるのは切り立った絶壁である。底の方は暗く、対岸も見ることが出来ない。地面の穴を見下ろしているというのに、穴のなかには雲らしきものも浮いていた。

 天地があべこべになったような、奇妙な光景だった。

 穴を見下ろすウィレムに、行商人は誇らしげに教えた。



「ガリアから来たんなら初めてでしょう。これが“ポントゥスの大穴”ですよ」

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