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第22話 獣たちの夜明け

 油断、というにはあまりにわずかな気の緩みだった。

 ほんの一瞬、緊張を解いただけのことだった。

 だが、狡猾な(けだもの)はその一瞬を逃さない。

 仰向けに倒れたマリアの胸には、三叉の燭台が深々と突き立てられていた。



「くく、はははは」



 ウィレムの後ろで、燭台を投げた張本人が高笑いを上げる。瞳孔が大きく開かれ、口の端が裂け上がっている。正気の人間の形相ではなかった。



「見たか、悪魔め。これぞ、天の思し召しというものだ」



 司祭は、座り込んだまま、錯乱気味にしゃべり続ける。その胸ぐらを、ウィレムは強引に掴んで引き寄せた。だが、司祭はウィレムに気付いていないようだった。天井を見上げたまま、ぶつぶつと独り言を呟いている。


 ウィレムは司祭から乱暴に手を放すと、倒れているマリアを抱き上げた。

 燭台の針は、彼女の胸に深くもぐり込んでいた。銀の針を伝って、血が渾々と流れ落ちる。ウィレムたちと同じ赤い血が、彼女の白い肌を染めていった。手を握るとまだ温かい。硬い爪先が肌に擦れて、ウィレムの腕に引っ掻き傷の線を引いた。


 自らを化け物と呼び、悪魔と呼ばれた女性の死。しかしそれは、ウィレムにとっては知人の、身近な“人間”の死であった。自分の中に虚ろな虚脱感が満ちていく。


 マリアの小さな口が、かすかに動いた。



「ウィレム。貴方はやっぱり、私の思った通りの人だったわ」



 彼女の顔には、どんな感情も浮いていない。



「他人の死に涙を流せるなら、貴方はきっと善い人よ。でも、だからこそ、これから私がすることを、止めないで欲しいの」



 言われて初めて、ウィレムは自分が泣いていることを知った。

 そして、自分の握るマリアの右手に力が込められていくことにも、気が付いた。

 マリアが立ち上がる。刺さっていた燭台を引き抜くと、胸に空いた三つの穴からは、鮮血があふれ出した。



「残念だったわね。化け物は、こんなものじゃあ、殺せないのよ」



 見下ろすマリアと、見上げる司祭。

 カタカタと奥歯を打ち合わす音がする。



「やっぱり、駄目だ。君は人殺しなんてしちゃいけない」

「止めないでって言ったでしょ。これ以上止めるなら、貴方にも危害を加えないといけなくなるわ」



 眉の付け根をほんの少し寄せはしたが、マリアの声はどこまでも冷たい。右手に込められる力がさらに強くなった。

 その腕を、ウィレムは必死に抱え込んだ。そこに全身のありとあらゆる力を注ぎ込む。それでも、マリアの腕を押さえ込むのは、厳しかった。


 自分の腕の中で、人智を越えた力が膨張するのを感じた。牛や馬、猪などに近い野生の力だ。頭の中では、理性でなく本能が、危機を叫び続けていた。

 それでも、ウィレムは手を放さない。腰を落とし、膝と足の裏に力を込める。マリアに人を殺させてはならない、その一念が、普段以上の力を彼に与えていた。


 不意に、視界の端を迫り上がっていくものが見えた。

 マリアの左腕が、音もなく振り上げられていく。

 その爪が落とされた時、ウィレムに防ぐ術はない。だからといって、逃げるために腕の力を緩めれば、彼女の右手に弾き飛ばされてしまうだろう。

 マリアの腕が止まった。



「これが最後よ。お願い、手を放して」



 ウィレムは黙ったまま、力一杯に彼女の右腕を抱きしめた。

 マリアの内部で、得体の知れないものがさらに膨らんだのが、わかった。脈動が早まり、筋が硬直していく。これが弾けた時が最後なのだ。

 増大する力が限界に達したことを、ウィレムは感じ取った。すぐに力は解放されるだろう。


 覚悟を決めたウィレムの顔に、突如として、赤い疾風が吹き付けた。あまりの衝撃に、思わず目を閉じる。

 頭頂部を大きな雫が打つのを感じた。一滴、一滴、一定のリズムで落ち続ける。

 目を開けると、マリアの中の力は既に霧散していた。滴は髪の毛の間を縫い、額を伝って顔に垂れ、口に入った。血の味がした。


 見上げると、振り下ろされるはずだった爪はなく、一本の剣がマリアの身体を裂いていた。見慣れたアンナの剣だ。

 剣は、マリアの左肩口から入って鎖骨を断ち、真っ直ぐに進んで、腕の付け根辺りで止まっていた。左腕は、筋一本、皮一枚で、身体にぶら下がっている状態だ。



「やっぱり私、貴方が嫌いよ」



 マリアは正対するアンナをにらみつける。



「貴方なら、私の身体を両断することも出来たでしょうに。主の命が危ういというのに、敵の命を奪う覚悟も決められないのね。そういう所、自分の半端さと重なって見えて、とても腹立たしいわ」



 ウィレムには、アンナの表情を見ることが出来なかった。だが、彼女の動揺を察することは出来る。荒い呼吸が、剣を伝う振動が、背中越しに感じる体温が、そのことを詳細に告げていた。



「お願い、もう退いて」



 哀願するようなアンナの声が、低く静かに響く。

 マリアは左手を失い、右手はウィレムに押さえられている。これ以上の動けないはずだった。にもかかわらず、マリアはくすりと微笑した。



「殿方の前では、あまり使いたくないのだけれど……」



 話いているマリアの下顎が、大きく迫り出していく。続いて、骨が(きし)むような音を鳴らしながら、上顎が飛び出す。彼女の美貌とは不釣り合いな、ヘビを思わせる巨大な口が現れた。


 大きく裂けた口が、そのまま、ウィレムの背後に伸びる。

 後ろを向いた時には既に遅く、司祭の頭は右半分が喰い千切られていた。

 屍は力無く倒れ伏し、ウィレムの身体からも力が抜けていった。その場に尻を突いて、へたり込む。


 目の前のマリアは、少女の姿に戻っていた。白い肌を真っ赤に染めている点と、左肩の付け根に深い傷を負っている以外は、食堂で別れた時と変わらない姿だった。



「ウィレム、ごめんなさい。やっぱりこれが、私の決めた“化け物”の生き方なの。でも、最後まで人間の女の子として扱ってくれたこと、うれしかった」



 落ちそうになる左肩を抱えながら、マリアは壁の穴の方へと歩いて行く。いつの間にか、その横にゲーヴの姿があった。

 ゲーヴが、ウィレムを一瞥(いちべつ)した。憐憫(れんびん)とも、反感とも、嫉妬ともつかない目。ただ、間違いのないことは、その瞳に人間的な感情が浮いていたことだ。



「もう一緒には行けないわ。さようなら。貴方たちの旅路に幸多からんことを」


 そう言うと、マリアとゲーヴは礼拝堂を出て、朝の光の中に消えて行った。既に月は消え、空は白み始めていた。

今回登場したマリアとゲーヴに関するお話として、短編「血塗れの聖母」http://ncode.syosetu.com/n1647dy/も御座います。気が向きましたら、お読みください。

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