第21話 悪夢は続く
アンナは終始、マリアの振るう凶爪に手こずっていた。
彼女の動きに、洗練された美しさは感じられない。両腕をただ振り回すだけの、乱雑な攻撃である。だが、一撃一撃が桁違いに重い。彼女の小さな身体のどこから、これほどの膂力が湧いてくるのか、想像も出来なかった。
避けることは簡単だったが、そうなれば、マリアは有無を言わさずに、後ろにいる司祭を殺すだろう。何が彼女にそこまでさせるのか、尋ねても答えはなかった。
その場の状況と、旅の間に育んだマリアへの情が、アンナの剣を鈍らせた。
満足に剣が振るえない自分に、腹が立つ。自由に動けるなら、相手がマリアでなかったなら、こんな稚拙な攻撃に押し負けることなど、ありはしない。
思いは身体に伝わった。剣を握る手には力が入り、踏み込みは自然と深くなる。気が付くと、受け止めた腕ごと、マリアの身体を吹き飛ばしていた。
マリアは、十字架をなぎ倒し、爆音をともなって、祭壇奥の壁に衝突した。
崩れた煉瓦と一緒に、マリアの身体が地に落ちる。
彼女の開けた穴の向こうには、真っ暗な空間が広がっていた。
部屋のようだが窓がなく、外からの光が全くとどかない。その闇の中で、何かが蠢く気配があった。
「やっぱり、思った通りね。私の鼻も馬鹿に出来ないでしょう」
暗闇の中から、後頭部を擦りながら、マリアが姿を現した。ウィレムたちにはわからなかったが、彼女には、闇に潜むものの正体がわかっていたような口ぶりだった。
「ここの奴らが何をしていたのか、よく見ることね」
マリアは、壁から落ちた燭台の中からまだ灯の付いているものを拾いあげると、部屋の中に明かりを向けた。
照らし出された光景に、ウィレムは思わず息を呑んだ。
そこにいたのは、若い女性たちだった。皆、手枷と足枷をはめられ、猿轡をかまされている。燭台の炎に目が慣れないためか、それとも、マリアの姿が恐ろしいのか、女性たちの目には恐怖の色が浮いていた。一所に身を寄せ合い、震えながら外の世界を見つめている。
「全部、貴方の仕業でしょう。今までさんざん喰い物にしてきたのよね。それじゃあ今度は、貴方が罰を受ける順番よ」
足下の煉瓦を一欠片拾うと、マリアはそれを、ウィレムの方へ投げつけた。
ウィレムもアンナも、呆然としていて反応できない。煉瓦はウィレムの顔の横を風を切って通り過ぎ、後方の柱に当たって砕けた。
煉瓦の飛んでいった方を見ると、いつの間に逃げたのか、司祭フォースタスが柱の根元で尻もちを突いていた。
それを見て、すぐにアンナが司祭の方へ走り出した。
「ゲーヴ、その子の相手をお願い。足止めくらいは出来るでしょ」
立ち上がったゲーヴと入れ代わるように、マリアが大きく跳躍した。礼拝堂の高い天井を跨ぎ、司祭めがけて天を翔る。
アンナはゲーヴと対峙していた。逆に、ウィレムは自由に動けるようになった。
間に合うのはウィレムだけである。だが、マリアの話が本当なら、あの司祭に命を救う価値はあるのだろうか。そこまで考えて、考えるのを止めた。
前を向いて走り出す。みすみす、目前で人を殺させるわけにはいかなかった。
マリアが司祭の前に降り立つ。皮肉にも、天使降臨を思わせる神々しさを、彼女はまとっている。
「あ、悪魔めーーーーーー」
司祭はマリアに十字架を突き付けた。歯と歯がぶつかって軽薄な音を立てる。
「我が守護の天使、御身の強き翼もて、弱き我が霊魂を包み給え。清き御手もて、我を守り給え」
司祭の嘆かわしい懇願は、剣撃の音に掻き消された。
「最後の祈りは終わった? 最後まで最低な奴だったわね。少しでも聖職者の誇りがあるなら、喰い物にしてきた人たちの平穏を祈ったでしょうに」
マリアが冷ややかな視線を、司祭に投げかける。
「うるさい、うるさい。あれは違うのだ。私は、神に代わって、奴らに恩寵を与えてやったのだ。幸福へと導いてやっただ――」
言い終わる前に、司祭の声は悲鳴に変わった。マリアの脚が、彼の片方の脛を踏み折っていた。
「もう黙りなさい。耳障りだわ。貴方みたいな人、一時だって生きていちゃいけないのよ」
美しい顔が歪んで曇る。右腕が高々と掲げられていく。
だが、その腕がぴたりと止まった。
マリアの前には、両手を広げたウィレムが立ちふさがっていた。
「退きなさい、ウィレム」
「こんなことをしちゃダメだ」
膝は震えていたが、視線は真っ直ぐに、眼前のマリアを捕えていた。
「こんな奴に、守る価値なんてないわ」
「それでも、君みたいな人が、人殺しをしてはいけない気がする」
ウィレムの言葉が、マリアの表情をさらに曇らせた。彼女の小さな肩が小刻みに震えだす。
「私みたいって言ったわね。見なさい、この爪を、牙を、角を。私は人間じゃないの。正真正銘の化け物なの。初めて会った時だって、貴方を食べたい衝動を必死に抑えていたんだから」
声がわずかにうわずっていた。いつもは笑顔の仮面で隠している、彼女の触れられたくない場所に、ウィレムは触れてしまったのだ。
「それでも、やっぱりダメだ。人を裁くのは神の仕事さ。それに君、とても苦しそうな顔をしているじゃないか」
ウィレムの言葉に、マリアの身体がぴくりと動いた。彼女の手が、自分の顔をゆっくりと撫であげる。皺の寄った眉間を、ひきつった頬を、固く結ばれた唇を。瞳は湿っていたが、涙の雫は流れなかった。
マリアの周りから殺気が消えた。
「貴方、改心するなら命だけは取らないであげる」
司祭は何度も首を縦に振った。
「我らの天主に誓って、改心いたします」
目、鼻、口から汁を垂れ流しながら、懇願するように頭を垂れている。
その姿に、ウィレムは肩の力を抜いた。
これにて一件落着。一息付けるというものだ。
だが、その時彼らは忘れていた。往々にして、僧侶の表面と、腹の中の思惑とが異なるということを。