第20話 “化け物”の夜
ウィレムとアンナが礼拝堂に駆けつけると、なかはひどい有り様だった。煉瓦の壁は一部が崩れ、数本の列柱が、無残に折れていた。
土煙の舞うなか、壁の穴から差し込む月光が、反対側の壁面に恐ろしい化け物の影を映し出した。鋭い爪、裂けた口からは凶暴な牙がのぞいている。
そして、その影から逃れるように、祭壇にかじりつくフォースタス司祭の姿が、二人の目に入った。
化け物がゆっくりと司祭に迫る。
考えている余裕はなかった。
「アンナ、頼む」
ウィレムが指示を出すより先に、アンナは剣を抜いて走り出していた。
祭壇は身廊の奥に位置している。アンナの脚でも間に合うかは微妙だった。
化け物の影が爪を振り上げる。
やはり間に合わないかと思われた時、アンナの身体が宙を舞った。化け物の前に躍り出ると、振り下ろされた爪をすんでの所で受け止める。
「やっぱり、来ちゃったのね」
聞き覚えのある高く抜ける声だった。化け物の影がくすりと笑ったように見えた。
土煙が晴れていき、月影を浴びて、隠れていた化け物の姿が現れる。
その姿は、ウィレムの知る人物とよく似ていた。少女のような小さな身体は、血の気を感じないほどに白く、滑らかなブロンドの髪がひるがえる。
違うのは、長く伸びた鋭い爪と、薄い唇の間からのぞく牙、頭巾を取った頭には、羊のような渦巻く角が生えていた。見ると、服の前がへその辺りまで引き裂かれている。
「マリアなの。何で……」
アンナの声は、ウィレムの思いも代弁していた。
信じ難い光景にめまいがする思いだった。自分は夢でも見ているのではないか。一度強く目を閉じてみたが、開いた瞳に映った景色は、何も変わっていなかった。
マリアがもう一方の手を、司祭の方へ伸ばす。
呆然としていたアンナは慌てて剣を振った。
広い礼拝堂に、金属同士がぶつかり合う重い音がこだまする。
攻撃を防がれたマリアは、一旦後方へ飛んで距離をつくった。
「マリア、何でこんなことを」
「見てわからない。そいつ、私を呼び出しておいて、襲ってきたのよ。しかも神聖な祭壇の上で。お気に入りの洋服もこんなにしてくれちゃって」
マリアは、か細い腕には不釣り合いな爪を器用に操り、裂けた服の生地を摘むと、ひらひらと振って見せた。
姿は変わっても、口調はいつものように滑らかである。
「だからって、殺そうとしなくても」
一方、応じるアンナは歯切れが悪い。眉の根元に皺を寄せて、顔をしかめる。
彼女の後ろでは司祭が腰を抜かして震えていた。その目には死への恐怖が浮いている。礼拝堂のなかは、入口に立つウィレムにも明確に感じ取れるほど、殺意で満ちていた。
事態をどのように収集するにしろ、まずは司祭を保護しなければならない。マリアに悟られぬよう、ウィレムは密かに動き出した。その喉元に、刃の切っ先が突き付けられる。
「お前は黙ってここにいろ」
普段は信者たちが座る長椅子の最後尾、ウィレムに最も近い席にゲーヴが座っていた。一歩でも進めば即座に殺す。彼の瞳がそう言っていた。
「わかりました。僕はここを動きませんから、その剣を納めてください」
ウィレムは、ゲーヴの隣の椅子に座った。中央の通路を挟んで、二人の席は隣り合わせになっている。
正面奥の祭壇前では、アンナとマリアが再び戦いを始めた。
マリアの爪が触れると、壁でも地面でも関係なく触れた場所がえぐれて無くなる。まるで、溶けかけのバターにナイフを入れるように簡単に。
それを受けるアンナの動きは、どこかぎこちない。マクシミリアンを撃退した時の精細さは影を潜めていた。
助け船を出そうにも、ウィレムも動くことが出来なかった。
「彼女は、何故、こんなことをしているのですか」
二人の戦いを目で追いながら、隣に座るゲーヴに尋ねる。今出来ることは少しでも情報を集めることだった。
「慈善事業みたいなもんだ。本人は認めないだろうがな」
「司祭を殺すことが、ですか」
ゲーヴもウィレムの方を見ることはない。二人は互いの連れがぶつかり合うのを、ただ真っ直ぐに見つめていた。二人の実力は伯仲しており、攻防は長引きそうに思えた。
ゲーヴが突然切り出した。
「僧侶の腹の中は伏魔殿だって言ったよな。この教会やたらと羽振りが良いが、どうしてだと思う」
「わかりませんよ。信心深い貴族が喜捨でもしてるんじゃないですか」
この問いが現状とどのように関わるのか。ウィレムは口を動かしながら、頭の中では自分の知る情報の欠片をかき集める。
裕福な教会、襲われたマリア、部屋での襲撃、旅人をもてなしたがる司祭……
つながりそうでいて、いまいち、要領を得ない。まだ見落としがあるのだろうか。
「知っているか。若い女は、場合によっては男よりも高く売れるそうだ。特に美人はな」
突然の言葉に、頭の中で組み上げていた見取り図が音を立てて崩れ去った。
何故ここで人売りの話が出るのか。だいたい、この村に入って以降、女性を一人も見ていない。胸を刺された旅人の死体でさえ、二人とも男だった。
思考の合間に違和感が走り抜ける。喉の奥で物がつかえたような、そんな気持ち悪さが残っていた。
死んだのが男だったのではなく、男だったから殺された、と考えればどうだろう。男は不要だった。そうなると、女はどうなる。
ウィムの中で悪い予感が急速に膨れあがっていく。心の堰が軋み、なかの物が溢れ出しそうになっている。
その時、激しい衝突音が辺りに轟いた。
終始押され気味だったアンナが、マリアの身体を弾き飛ばしたのだ。
マリアはそのまま礼拝堂最奥の壁に打ち当たった。掲げられていた十字架はなかほどで折れ、壁の煉瓦は、がらがらと音を立てて崩れる。
しかし、崩れた壁の向こう側は、月夜の庭ではなかった。
現れたのは、外からの音を閉ざす厚い壁と、光を遮断する窓一つない隠し部屋。それが祭壇の向こうに広がる世界だった。