第19話 一人の夜
ひとしきりウィレムの胸で泣いた後、アンナは目の周りを腫らしたまま、自分の部屋へと帰っていった。マリアが礼拝堂から戻る前に寝てしまわないと、気まずいのだそうだ。
二人のことは心配でならなかったが、夜中に女性の部屋を訪ねるのは、流石に行儀が悪い。ウィレムはゲーヴに言われた通り、大人しく眠ることにした。
寝床についてはみたものの、なかなか寝付けなかった。
疲労が無いわけではなかったが、目を瞑っても、一向に眠気をもよおさない。
ウィレムは仕方なく瞼を開けると、その日の出来事に思いを巡らし始めた。
死んだ旅人と、彼らを埋葬しようとしていた老人のこと。他人の死から自分の死を想起したのは初めてのことだった。恐ろしかった。切なかった。人間の人生が、断崖に張られた細い綱の上にあるような、そんなじりじりとした危機感に苛まれた。だからこそ、老人の、死者に対する慈しみが、ひときわ心に染みたのだ。
そんな心境から出た言葉に、相手を見下す気持ちが混じるはずがない。ゲーヴの指摘は当然のことだった。
だが、疑問もある。説教をする時、本当に人は相手を見下すものなのか。
アルベールのとぼけた顔が頭に浮かぶ。師もそうだったのだろうか。修道院で教えを説いてくれていた時、彼も自分のことを見下していたのだろうか。
考えた所で、答えは出ない。だが、心のどこかで、ゲーヴの意見を拒み続ける自分がいた。
アンナとマリアのことも気掛かりである。
彼女が気ままで、周囲への気配りに欠けるのは昔からのことだ。だから、彼女の周りからは人が離れ、いつもウィレム一人だけが残った。
今まではそれでも良かった。一度離れた者たちも、彼女の英雄的な魅力に惹かれて戻ってきたし、彼女の勝手を敢えて指摘する者も、ほとんどいなかった。それを直接言葉にして彼女に伝えたのは、マリアが初めてかもしれなかった。
ウィレムと話している時、マリアにとげとげしい様子はない。ゲーヴに対しては多少当たりが強いが、それが二人の距離感なのだろう。そんな彼女が面と向かって嫌いと言い放つとは、未だに信じられなかった。アンナに対して、どうしても我慢ならないことがあるのかもしれないが、それを本人に尋ねるのは、気が引ける。
思えば、マリアたちについて知らないことばかりである。
目深に被った頭巾の理由も、晩餐の席で初めて聞いた。一緒に旅をしてはいるが、彼女らの旅の目的も聞かされていない。
考えれば考えるほど目は冴え、夢の世界は遠退いた。
闇になれた視界の端で、何かが蠢いた気がした。ゲーヴが帰ってきたのかとも思ったが、どうやら違うらしい。入ってきた気配は、足音を立てないように、殊更ゆっくりと歩いている。
横になったまま様子をうかがっていると、侵入者は隣の寝台に近付いていった。
寝台の頭の方までやってくると、おもむろにその上をまさぐり始めた。
音や気配から察するに、相手は二人だった。ゲーヴがいないとわかったのか、一人が小さく舌打ちする音が聞こえた。
次に、侵入者たちはウィレムの寝台に近付いてきた。一人は足下に、もう一人は頭の方へにじり寄ってくる。途中、相手の身体が、ウィレムの腕に当たった。
触れられた場所を起点にして、全身に震えが走る。
少なくとも、今の接触で自分の存在がばれてしまった。呼吸を止め、可能なら、心臓の鼓動さえも止めたかった。
頭の方へ来た人影が、寝台の上に登ってきた。身体が緊張で強張っていく
調度その時、明かり取りから入る月光が、寝台の上に射した。淡い光が侵入者の手元を照らし、冷たい白刃が露わになる。
男が腕を振り下ろすのと、ウィレムが跳ね起きるのが同時だった。
的を外れた刃は、ウィレムの胸があった辺りに、深々と突き刺さっていた。
間髪を入れずに、男の顔目掛けて拳を投げ出す。
不安定な寝台の上にいるため威力はなかったが、相手を怯ますには十分だった。
寝台から飛び降りると、相手の腕を取って捻り上げる。男の口から蛙の鳴き声のような悲鳴がもれた。
足下の方にいた男は、何が起こったかわかっていないらしい。その場で慌ただしく足踏みをしている。その音で敵の位置がわかった。
そちらに向けて、押さえ込んでいた男を放り投げる。抱え込んでいた腕の肘関節を逆に取りながら投げ飛ばした。
狙い通り、投げられた男はもう一人にぶつかった。もたつく二人の顔を思い切り蹴り上げる。侵入者たちは動かなくなった。
それと同時に、廊下の方からどたばたと騒がしい足音が聞こえてきた。
「ウィレムさま、ご無事ですか」
息を切らせて飛び込んできたアンナの姿を見て、ウィレムは目を見開いた。薄手の下着の上に剣を帯び、小脇には、力なくうつむいた男を抱え込んでいる。なんとも奇天烈な格好である。
「その人、どうしたの」
男はまだ息があるようだったが、ぴくぴくと痙攣していた。
「寝ていたら襲ってきたので、のしてやったんです。うっかり抱えたまま来ちゃいました」
アンナは男の身体を無造作に投げ捨てた。男はそのまま、空いていた寝台の上に転がった。
「何なんでしょう、この人たち。マリアもまだ戻ってなかったし」
どうやら、ひと眠りしたことで、平常運転のアンナに戻ったようである。取り敢えず、服だけは着てもらいたい。
ウィレムが胸を撫で下ろした時、礼拝堂の方から雷が落ちたような轟音が響き、続いて、大きな地鳴りが司祭館を襲った。