第158話 思わぬ伏兵
夕日がウラル城壁の向こうに沈んでいく。空は赤から灰色を経て黒へと変じようとしていた。
テムルの本営が行軍を止めると、人々は荷物を降ろして座り込んだ。ウィレムも後ろのオヨンコアとともに馬から降りた。
「すぐに夜営の用意に取りかかりますね」
オヨンコアは慌ただしく荷物を降ろしにかかる。すぐ隣にアンナの馬が近付いてきたので、彼女が馬から降りるのを手伝おうと、ウィレムは手を差し伸べた。
しかし、アンナは鞍に跨がったまま一向に馬の背から降りてこない。彼女は首を回して辺りの様子を眺めている。
「どうかしたの」
「いえ、何となく変な感じがして」
ウィレムに気付き、アンナは返事をしながらその手を取った。地面に降りた彼女が、馬の鼻先を撫でてやると、馬は快さ気に低く鳴いた。
ウィレムも周囲を見回す。宵闇のなかで人々が思い思いに休んでいた。履き物を脱いで自分の脚を揉む者、ぼんやりと空を見上げる者、荷物の上に腰を下ろし、馬乳酒をすすっている者もいる。束の間の憩いの時が彼らを包んでいた。
座り込む人々を避けながら、馬の影がゆっくりと歩いて行く。ウィレムはその背に人影を見た。一頭だけではない。未だ多くの馬上には、タルタル人の姿がある。
「何で彼らは馬から降りないのでしょうね。やっぱり、お馬の背中が一番落ち着くのかしら」
アンナは首を傾げる。だが、ウィレムの目には彼らが休んでいるように見えなかった。皆、姿勢を崩さず、手綱をしっかりと握り締めている。
「今日はここで夜を越すのではないのですか」
近くにいたタルタル人に尋ねると、馬上から低い声が返ってきた。
「私は何の命令を受けていない。だからこうして馬上に控えている」
一言で去っていく馬の背を見ながら、ウィレムは漠然とした不安に襲われた。
「僕、大天幕の様子を見てくるよ。二人はここで待っていて」
アンナとオヨンコアをその場に残して、ウィレムは足早に歩き出す。アンナがついていこうとしたが、オヨンコアが引き留めた。
大天幕の周りには人が集まっていた。大きな者も小さな者もいたが、皆、総じて身体がぶ厚い。タルタル人の馬乗服とは違う、たっぷりとした、余裕のある衣を身にまとっている。屈強な男たちは、うろうろと歩き回り、天幕の入口を眺めては不安そうに顔をしかめていた。
「腰抜けどもめ。貴様等がまどろっこしい策を巡らしている間に、俺が敵の首を取ってきてやる」
怒声とともにフェルトの扉が乱暴に開け放たれ、数人の男が外に出てきた。かつかつと木靴を鳴らし、肩を怒らして歩いている。控えていた者たちは彼らを取り囲むと、話しをしながら大天幕から離れていった。
無造作に開いた扉から天幕のなかがわずかに見えた。タルタル人の将軍たちが居並ぶ最奥で、テムルが胡座を掻いていた。彼のまなじりは吊り上がり、口は真一文字に結ばれている。
テムルと目が合いそうになり、ウィレムは咄嗟に扉の陰に身を隠した。
見てはいけないものを見てしまった、そんな気がした。テムルの表情は単なる怒りではなく、焦りや悔しさ、迷いやそれを振り払おうとする強い意志、幾つもの思いが複雑に混ざり合い、その上澄みが顔の上に滲み出ているようだった。
天幕のなかでは話し合いが続いている。立ち去ることも出来たが、ウィレムの脚はその場に釘付けになって動かない。テムルの考えを知らなければならない、そう思った。
初めて彼と話した時、その胸中には異母兄と義母を誅し、自身が大王となるという大望が秘されていた。テムルはその時と同じ顔をしていた。
天幕の壁布に耳を当ててみたが、誰かが話しているのは聞こえても、詳しい内容まではわからない。
ウィレムはじりじりと布に身を預けながら、耳を澄ましてなかの様子をうかがった。少しでも、起きていることについて知りたかった。
「そんな所で何をなさっているのですか」
突然、背中の方から声がした。
慌てて振り返ろうとして、壁布に足を取られる。体勢を崩し、転んで地面に尻をしたたか打ち付けた。
「そこまで慌てることはないでしょう。面白い人だな、貴方は」
ラシードが口元に手を当てながら、見下ろしていた。
「盗み聞きとは行儀が悪い。そんなことせずとも、尋ねてくれれば、答えますよ。我らは互いに協力者なのだから」
差し伸べられた薄い掌を掴み、ウィレムは立ち上がる。その勢いで、次はラシードが倒れそうになった。
「大事な話し合いだったのですか」
言われた通り、ウィレムは尋ねた。
「大したことはありません。全て予想の範疇です。ただ、いざ事態に直面すると、陛下が決断を下されるのに、少しばかり時が必要だったというだけなのですよ」
ぶれのない声が、静かに響く。
「陛下は何を決意されたのです。それは尋ねても良いことですか」
「勿論です。それこそ、貴方たちの助けが入り用になるかも知れない」
ラシードが薄く微笑んだ。
「サルタク様が反旗をひるがえしたのです。このままでは背後を突かれることになる。残してきた家畜たちも心配です。そこで、テムル陛下はサルタク討伐を命じられたのですよ」
その声を聞いた時、寒気がして肩が震えた。
変わらないはずのラシードの笑みが、不気味に歪んだように感じられた。