第157話 城壁のある風景
「すごい、すごーい。ウィレムさま、塔壁があんなにはっきりと見えますよ」
アンナは鐙の上に立ち上がり、身を乗り出して前方を指差した。ウィレムは自分の馬から彼女に座るよう促しながら、その指が示す先に目をやった。横たわるウラル城壁が視界を隅から隅まで埋めている。
そびえる城壁は天を突き、頂上は雲に隠れている。北壁から枝分かれして緩やかに曲線を描く城壁は、西に向かう一行の目の前を横切って、南方へどこまでも伸びる。壮大なたたずまいを前にして、誰かがため息を吐くのが聞こえた。
「ここから大分離れていますが、これほど確かに見えるものなのですね」
「それは僕も気になっていたんだ。あの壁は何か特別なのかもね」
オヨンコアは、ウィレムの背に掴まって、不安そうに壁を見上げる。
普通、離れた所から見る塔壁は、空のなかに溶け込んで見えなくなる。そして、近づくにつれてぼんやりと目の前に現れる。塔壁とはそういうものだった。壁に上塗りした空には日が昇り、雲も風に乗って動く。どのような仕組みで壁が見えなくなるのか、知る者はいなかったが、皆、そういうものだと納得していた。
「ここいらでも、空に消えないのはあの壁だけだよ、お嬢ちゃん」
斜め前を歩いていた男が振り返る。細長い口髭を生やした小男は、歩く速さを遅らせてウィレムの馬の隣までやってきた。
「おじさん、どちら様? タルタル人じゃないでしょう」
「そうだよ。わっしはカセイの人間さ。そっちのお嬢ちゃん、良くわかったね」
「だって、匂いが違うもの。タルタル人なら獣のお乳の匂いがするわ」
アンナの言葉を聞いて男は自分の手の甲を鼻に近付けた。ウィレムも鼻を動かして匂いを嗅いでみたが、違いが全くわからない。後ろのオヨンコアに訪ねると、
「ここに戻った時から、そんな匂いばかりです。疾うに麻痺してしまいました」
彼女はそう言って、細い指で小さな鼻先をこすった。
「お前さんらこそ、どこから来たね。タルタル人って顔じゃないが」
小男は馴れ馴れしく話しかける。ウィレムは態度を崩さずに答を返した。
「上層のガリアという国から来ました」
「ガリアか、聞かん土地だ。見たところ奴隷じゃなさそうだし、人質か、それとも貢物を持ってきた使いの者というところかな」
まるでガリアがタルタル人に負けたような男の口振りに、ウィレムは眉を寄せて顔をしかめる。それを見て、彼はたじろぎ後退った。ちょうどそこにアンナの馬が歩いてくる。ウィレムが慌てて伸ばした手は男にはとどかない。
男の身体が馬の前に飛び出した。両者がぶつかるすんでのところで、アンナは優しく馬の首筋を撫でた。馬は脚を緩めずに、淀みなく男を避け、その横を通り過ぎた。
男が息を吐いてその場にへたり込む。ウィレムは馬を止めて彼に駈け寄り、手を引いて助け起こした。
「大丈夫でしたか」
「ああ、なんともないよ。心の臓が止まると思ったがなあ」
男は服についた埃を叩きながら、ウィレムの顔をちらりと見た。
「済まなかったなあ、兄さん。気を悪くさせたみたいで」
その言葉でウィレムは男への不満を思い出した。少し心がささくれ立ったという程度のことだ。
「悪気はなかったんだ。ただよう、ほとんどの国はタルタル人に屈したとばかり思ってたもんでよう。ガリアってのは、そうじゃないんだなあ」
男があまりに済まなそうにするので、ウィレムの怒りもすぐに静まった。むしろ、動揺を隠しきれない自分が情けない。
「タルタル人は、そんなに多くの国を従えているのですか」
居た堪れなさに負けて、ウィレムは別の話を切り出した。
「そうだなあ、あそこを見なよ。ありゃ、ティムリスタンから連れてこられた職工だ。あっちはわっしと同じカセイの夏人、パールスの王様が遣わした家臣団もいる。大天幕の周りにいる、頭に布巻き付けてラクダ引いてんのがハシミア商人の一団さあ」
男が指差す先を順に追うと、それぞれ異なる顔立ちや身形の者がいた。肌の色も違えば、仕草も違う。サルタクの本営でも幾らか他の民族を目にしたが、それ以上の数と多様さが見て取れた。
額を冷たい汗が流れた。
目に映る人々と彼らの国を全て支配しているのだとすれば、タルタル人の力はウィレムの想像を遥かに超えている。
「全てを支配しているわけではありません。貢納させるだけの国もありますし、単なる商売相手もいます。想像で相手を余計に大きくするのは良くないですよ」
彼の動揺を察し、背中越しにオヨンコアが耳打ちする。それでも、ウィレムが抱く不安は消えない。
「そんな強いタルタル人に逆らうなんて、壁のなかの人たちはとっても強いのね」
ウィレムの心中を知らずに、アンナは無邪気に声を弾ませる。それを聞いて、男は腹を抱えて笑いだした。
「お嬢ちゃん、馬鹿を言うもんじゃないよ。あんなひょろちび共が強いもんかね」
「なにが可笑しいの。それ以上笑うと、私、怒るわよ」
アンナが凄んだので男は口を閉じた。だが、男の目尻は緩んだままだったので、アンナは頬を膨らませた。
「済まん、済まん。だがなあ、お嬢ちゃんは知らんのか。タルタル人が奴らを従わせた時の話だ。たった五人で乗り込んで、何千人と殺したって話だよう。それで、すぐに降参しちまったんだとよう」
「信じられない。それなら、その強いタルタル人たちをここに呼んで来なさいよ」
「昔の話なんだよ。お嬢ちゃん」
ウィレムも話し半分で聞いていた。幾らなんでも五人で数千人を殺したというのは信じ難い。だが、オヨンコアだけが顔を曇らせ、うつむいて考え込んでいた。
「どうしたのよ、オヨン。まさか今の話し、本気で信じちゃったの」
「おちょくらないで。アンナみたいな人がそうそういるとは思ってないわ」
「それじゃあ、オヨンコアはなにを考えているんだい」
ウィレムも二人のやり取りに加わった。
オヨンコアは少し考えてから口を開いた。
「五人で何千人は流石に大袈裟でしょうが、そんな話が出るほどには力の差があるのでしょう。それなのに、何故『塔壁の子ら』は無謀な戦いに挑むのでしょうか。それに、そんな相手に大王陛下が大軍を率いて親征されるというのも不思議に思えるのです」
オヨンコアが言い終わるかどうかというところで、一頭の馬が彼らの横を駆け抜けた。驚いて目で追うウィレムたちを背に、馬はテムルのいる大天幕の方へと消えていった。