表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
158/159

第157話 城壁のある風景

「すごい、すごーい。ウィレムさま、塔壁があんなにはっきりと見えますよ」



 アンナは(あぶみ)の上に立ち上がり、身を乗り出して前方を指差した。ウィレムは自分の馬から彼女に座るよう(うなが)しながら、その指が示す先に目をやった。横たわるウラル城壁が視界を隅から隅まで埋めている。

 そびえる城壁は天を突き、頂上は雲に隠れている。北壁から枝分かれして緩やかに曲線を描く城壁は、西に向かう一行の目の前を横切って、南方へどこまでも伸びる。壮大なたたずまいを前にして、誰かがため息を吐くのが聞こえた。



「ここから大分離れていますが、これほど確かに見えるものなのですね」

「それは僕も気になっていたんだ。あの壁は何か特別なのかもね」



 オヨンコアは、ウィレムの背に掴まって、不安そうに壁を見上げる。


 普通、離れた所から見る塔壁は、空のなかに溶け込んで見えなくなる。そして、近づくにつれてぼんやりと目の前に現れる。塔壁とはそういうものだった。壁に上塗りした空には日が昇り、雲も風に乗って動く。どのような仕組みで壁が見えなくなるのか、知る者はいなかったが、皆、そういうものだと納得していた。



「ここいらでも、空に消えないのはあの壁だけだよ、お嬢ちゃん」



 斜め前を歩いていた男が振り返る。細長い口髭(くちひげ)を生やした小男は、歩く速さを遅らせてウィレムの馬の隣までやってきた。



「おじさん、どちら様? タルタル人じゃないでしょう」

「そうだよ。わっしはカセイの人間さ。そっちのお嬢ちゃん、良くわかったね」

「だって、匂いが違うもの。タルタル人なら獣のお(ちち)の匂いがするわ」



 アンナの言葉を聞いて男は自分の手の甲を鼻に近付けた。ウィレムも鼻を動かして匂いを嗅いでみたが、違いが全くわからない。後ろのオヨンコアに訪ねると、



「ここに戻った時から、そんな匂いばかりです。()うに麻痺してしまいました」



 彼女はそう言って、細い指で小さな鼻先をこすった。



「お前さんらこそ、どこから来たね。タルタル人って顔じゃないが」



 小男は馴れ馴れしく話しかける。ウィレムは態度を崩さずに答を返した。



「上層のガリアという国から来ました」

「ガリアか、聞かん土地だ。見たところ奴隷じゃなさそうだし、人質か、それとも貢物(みつぎもの)を持ってきた使いの者というところかな」



 まるでガリアがタルタル人に負けたような男の口振りに、ウィレムは眉を寄せて顔をしかめる。それを見て、彼はたじろぎ後退(あとずさ)った。ちょうどそこにアンナの馬が歩いてくる。ウィレムが慌てて伸ばした手は男にはとどかない。

 男の身体が馬の前に飛び出した。両者がぶつかるすんでのところで、アンナは優しく馬の首筋を()でた。馬は脚を緩めずに、(よど)みなく男を避け、その横を通り過ぎた。


 男が息を吐いてその場にへたり込む。ウィレムは馬を止めて彼に()け寄り、手を引いて助け起こした。



「大丈夫でしたか」

「ああ、なんともないよ。心の臓が止まると思ったがなあ」



 男は服についた(ほこり)(はた)きながら、ウィレムの顔をちらりと見た。



「済まなかったなあ、兄さん。気を悪くさせたみたいで」



 その言葉でウィレムは男への不満を思い出した。少し心がささくれ立ったという程度のことだ。



「悪気はなかったんだ。ただよう、ほとんどの国はタルタル人に屈したとばかり思ってたもんでよう。ガリアってのは、そうじゃないんだなあ」



 男があまりに済まなそうにするので、ウィレムの怒りもすぐに静まった。むしろ、動揺を隠しきれない自分が情けない。



「タルタル人は、そんなに多くの国を従えているのですか」



 ()(たま)れなさに負けて、ウィレムは別の話を切り出した。



「そうだなあ、あそこを見なよ。ありゃ、ティムリスタンから連れてこられた職工だ。あっちはわっしと同じカセイの夏人、パールスの王様(シャー)が遣わした家臣団もいる。大天幕の周りにいる、頭に布巻き付けてラクダ引いてんのがハシミア商人の一団さあ」



 男が指差す先を順に追うと、それぞれ異なる顔立ちや身形(みなり)の者がいた。肌の色も違えば、仕草も違う。サルタクの本営(オルダ)でも幾らか他の民族を目にしたが、それ以上の数と多様さが見て取れた。


 (ひたい)を冷たい汗が流れた。

 目に映る人々と彼らの国を全て支配しているのだとすれば、タルタル人の力はウィレムの想像を遥かに超えている。



「全てを支配しているわけではありません。貢納させるだけの国もありますし、単なる商売相手もいます。想像で相手を余計に大きくするのは良くないですよ」



 彼の動揺を察し、背中越しにオヨンコアが耳打ちする。それでも、ウィレムが抱く不安は消えない。



「そんな強いタルタル人に逆らうなんて、壁のなかの人たちはとっても強いのね」



 ウィレムの心中を知らずに、アンナは無邪気に声を弾ませる。それを聞いて、男は腹を抱えて笑いだした。



「お嬢ちゃん、馬鹿を言うもんじゃないよ。あんなひょろちび共が強いもんかね」

「なにが可笑(おか)しいの。それ以上笑うと、私、怒るわよ」



 アンナが(すご)んだので男は口を閉じた。だが、男の目尻は緩んだままだったので、アンナは頬を膨らませた。



「済まん、済まん。だがなあ、お嬢ちゃんは知らんのか。タルタル人が奴らを従わせた時の話だ。たった五人で乗り込んで、何千人と殺したって話だよう。それで、すぐに降参しちまったんだとよう」

「信じられない。それなら、その強いタルタル人たちをここに呼んで来なさいよ」

「昔の話なんだよ。お嬢ちゃん」



 ウィレムも話し半分で聞いていた。幾らなんでも五人で数千人を殺したというのは信じ難い。だが、オヨンコアだけが顔を(くも)らせ、うつむいて考え込んでいた。



「どうしたのよ、オヨン。まさか今の話し、本気で信じちゃったの」

「おちょくらないで。アンナみたいな人がそうそういるとは思ってないわ」

「それじゃあ、オヨンコアはなにを考えているんだい」



 ウィレムも二人のやり取りに加わった。

 オヨンコアは少し考えてから口を開いた。



「五人で何千人は流石に大袈裟でしょうが、そんな話が出るほどには力の差があるのでしょう。それなのに、何故『塔壁の子ら』は無謀な戦いに挑むのでしょうか。それに、そんな相手に大王(ハーン)陛下が大軍を率いて親征されるというのも不思議に思えるのです」



 オヨンコアが言い終わるかどうかというところで、一頭の馬が彼らの横を駆け抜けた。驚いて目で追うウィレムたちを背に、馬はテムルのいる大天幕の方へと消えていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ