第156話 新たな戦い
「居ないはずのイージンに呼び出された時は驚きましたが、貴方でしたか」
言葉とはうらはらに、ラシードの口調は落ち着いていた。口元には微笑が浮かび、緩やかな曲線を描く眉は少しも動かない。長い睫に飾られた瞼が、瞬きで上下することさえなかった。
四人がいる天幕はウィレムがテムルから貸し与えられているもので、特別大きくもなければ小さくもなく、日々の暮らしには困らない。家具も一通り揃えられていて、不便を感じることはなかった。その天幕の中央でウィレムとラシードが向かい合っている。少し離れた所にアンナとオヨンコアが控えていた。オヨンコアが馬乳酒を入れた杯を二人分用意したが、ラシードが神との誓いを破ることは出来ないと言って丁重に断ったため、ウィレムの杯のなかもほとんど減らずに残っている。
「まずは、用件をうかがいましょうか。ウィレム殿には少なからず世話になりましたから、出来得る限りで力になりますよ」
ウィレムがどのようにして切り出すか考えていると、彼の心を読んで先回りするように、ラシードの方から話しをはじめた。ウィレムは喜んで話に乗った。
「今、タルタロスでは何が起きているのですか。教えてください」
「タルタロスで起きていることですか。随分と大雑把な質問だ」
ラシードは腕を組んで首を傾げる。それでも、彼の顔から余裕が消えることはない。むしろ、ウィレムの求めるものを知っていて、敢えて、しらばくれているようにも見える。
「イージンに急な呼び出しが掛かり、他の方々も本営に集められたと聞きました」
「なるほど、それで何かが起こると思ったと。いやあ、慧眼恐れ入る」
ウィレムの言葉をあらかじめ知っていたかのように、ラシードの口調は滑らかだった。そして、初めから台詞を用意していたかのようにすらすらと応える。
「アナタたちも、『塔壁の子ら』は知っていますよね」
ウィレムは首を縦に振る。後ろで話を聞いていたアンナが勢い良く頷いた。
塔壁のなかに人が暮らしていることは、ガリアでも良く知られていることだった。彼らは「エトランジェ」とか「ロマ」などと呼ばれている。彼らは滅多に壁の外と交流を持たず、姿を見せることは希だった。そのため、どのような暮らしをしているのかはほとんどわからない。塔の民は彼らを気味悪がり、例え目についても、いないものとして扱っている。旅人がどうしても塔壁のなかを通らなければならない時、道案内に彼らを使うと聞いたことがある。
「タルタルの大王は、『塔壁の子ら』さえも従えていたのですが、先日、彼らの一部が反乱を起こした。それで陛下は彼らを討伐することを決めたのです」
事も無げに言うラシードをウィレムはまじまじと見つめた。タルタル人が塔壁のなかまで支配を広げていたこと、彼らが反乱を起こしたこと、そして、有無を言わさず討伐が決まったこと、驚くべきことが多すぎて理解が追い付かない。それを見たラシードは「嘘ではありませんよ」と付け加えた。
動揺するウィレムを見兼ねて、オヨンコアがラシードに尋ねる。
「お話を遮ることをお許し下さい。その討伐というのはいつ出立なさるのですか」
「明朝、西へ向かいます。貴方たちは運が良い。出発に間に合ったのですから」
「ですが、まだ全員が集まったわけではないのでしょう。イージンだって」
「大切なのは早さです。タルタル人はとかく迅速なることを重んじる。回りくどく考えるよりも、決断を下して即動く、それが彼らの性なのです。良くも悪くもね」
そう言うとラシードは一度息を吐いた。
「私もイージンもそう思っていたからこそ、ドレゲネの企てに気付けなかったのですがね。まあ、彼女は例外です。大体、女の身で大王を暗殺するなど、誰が予想できましょう。ウィレム殿が陛下の背を押してくれなければ、今頃はあの愚兄が大王になっていた。そう言う意味では、私とイージンは貴方に助けられたのです」
にこやかに微笑みを投げ掛けるラシードに対し、ウィレムは申し訳なさ気に空返事を返した。未だに、ウィレムは自分のしたことがよくわかっていない。ただ、一時テムルと語らっただけだと思っている。そのため、礼を言われても実感が伴わず、首筋の辺りがむず痒くなる。
話を聞いていたアンナが首を傾げているので、ラシードが彼女に視線を送った。それを自分が話しに加わることへの了承と捉え、アンナは身を乗り出した。
「置いて行かれた人はどうするの? そのまま放っとかれちゃうの? こんなに広い所でばらばらに移動したら、二度と会えなくなっちゃうんじゃない?」
「元々タルタル人は部族単位で生きていますからね。むしろ、ばらばらなのが普通です。それに、彼らも無秩序に移動しているわけではない。季節毎に道も宿営地もある程度決まっている。陛下の意思を知れば、自ずと集まってくるでしょう」
「それじゃあ、イージンもそのうち戻って来るのですね」
ウィレムは胸を撫で下ろした。そして、自分が安心していることに気付き、無性に腹立たしさを覚えた。本来ならば、彼がイージンのことを心配する筋合いなど微塵も無いのである。
ラシードはウィレムの問には答えず、代わりに右手を差し出した。
「もし我々に困難が降りかかった時、再び貴方の力を貸してもらえますか」
「僕の力で足りるのなら喜んで」
ウィレムが差し出された手に自分の手を重ねようとした時、突然、アンナの身体が二人の間に降ってきた。彼女を避けるため、二人は手を引っ込める。
「何するのよ、オヨン。馬のお乳で服が汚れちゃったじゃない」
唇を尖らし責めるアンナを相手にせず、オヨンコアはウィレムの脇に擦り寄った。どうやら、彼女がアンナの背を押して二人の間に突っ込ませたようである。
「もし、ご主人様がラシード様にお力添えすることがあれば、その時は、大王陛下へのお目通り、叶えて頂けるますでしょうか」
一瞬固まったラシードはすぐに柔和な表情を取り戻す。
「お安いご用ですとも」
ウィレムとラシードは改めて握手を交わした。
翌朝、アルタン・テムル麾下のタルタル族の大軍は、一部の家畜と世話役を冬営地に残し、西に向けて出陣した。目指すのはタルタロス北西に横たわるウラル城壁である。