第155話 人と人とをつなぐもの
頬に触れた冷たさでウィレムは目を覚ました。眠る前に板の間の上に敷いた毛皮から、身体の上半分がはみ出している。二、三度首を回して起きようとすると、身体の節々が軋み、きいきいと音を立てた。
部屋を隔てる衝立の向こうからは寝息と衣擦れの音が聞こえる。アンナか、オヨンコアか、或いは二人そろってか、まだ目を覚ましていないらしい。
ふと気が付いて見回すとイージンの姿がない。前の晩には確かに同じ部屋で眠りについたはずだが、彼がいた痕跡は何一つとして残っていなかった。
突然、戸を叩くけたたましい音がして、まだ半ば夢のなかにいたウィレムの意識は現実に引き戻された。音は途切れることなく鳴り続く。不安を覚えたウィレムは上着を羽織ると、恐る恐る屋敷の表へと向かった。
玄関先では二人のタルタル人とジンツーが向かい合っていた。男たちは身を乗り出し、引き気味な彼女に覆い被さるような格好をとっている。男たちは大きな身振り手振りと、唾が飛びそうな早口で捲し立てる。目は血走っていた。
近寄ってくるウィレムに気付き、彼らは怪訝そうに顔をしかめた。
「お前、何者だ。この家の者か」
「どうかされたのですか。随分と騒がしいですけど」
男たちの目付きが険しさを増す。彼らの警戒を察し、ウィレムは急いで懐から円牌を取り出した。タルタロスの大王や諸王が発行する金属製の牌符は、その持ち主が発行主の信任を得ていることの証となる。駅站でこの牌符を示すと、駅馬を借り受けることが出来た。
円牌を見るなり、男たちの態度は瞬く間に改まった。背筋が伸び、顔から血の気が引いていく。あまりの効き目に驚いて、ウィレムの方も一歩後退る。
「それで、貴方たちはどういった用件でこちらに?」
「我々は、ヤン・イージン殿に急の召し出しを伝えに参ったのですが、この女性がイージン殿を出さないので難儀しているのです」
「この人の言っていることは嘘じゃありません。本当に彼はいないのです。その呼び出しというのは、それほど急ぎの用件なのですか」
「我々は召し出しを伝えに参っただけです。それ以上のことは教えられていません。ただ、他の主立った方々も集められているようですので、重大なの用向きなのだとは思います」
使者の口から勢い良く言葉がこぼれ落ちる。身体は落ち着きなく揺れていた。その様子から、急ぎの用件であるのは間違いなさそうである。
「戦、でしょうか」
黙っていたジンツーが小さくつぶやく。男たちは応えない。ただ片方の男が唾を飲み込んだのをウィレムは見逃さなかった。
「期日を教えてもらえれば、こちらで彼に伝えます。それではいけませんか」
ウィレムの申し出に男たちは顔を見合わせて少し考えてから、首を縦に振った。
用が済んだ二人はすぐに立ち去ろうとしたが、ジンツーが彼らを呼び止めた。
「遠い所、お疲れでしょう。少し休んでいかれませんか」
「有り難いことだが我々も急ぎ戻らなければならん。言伝、くれぐれも頼んだぞ」
そう言って踵を返すと二人は足早に立ち去った。
朝食の片付けを終え、家事の手伝いに向かおうとしたアンナとオヨンコアを、ウィレムは引き留めた。二人は捲った裾を直しながら、ウィレムの前に腰を下ろした。
「僕らも戻った方が良いと思うんだ」
「戻るって、大王の本営にですか?」
「急ぐことはないでしょう。イージンを待った方が宜しいのではありませんか」
二人が首を傾げるので、ウィレムは朝の出来事を話して聞かせた。使いの者の様子から、良くないことが起きているように思えたのだ。もし、ジンツーが言うように戦争が始まるのだとしたら、身の振り方を考えなければならない。
「今何が起きているのかを知らなければならないということですね」
「それに、戦だとしたら、本営が移動するかも知れないだろう」
「タルタル人って、家も家畜も皆一緒くたに動きますもんね。それで、私たちの戻る場所がわからなくなるのは、困りものです」
二人は概ねウィレムの話を受け入れた。問題はイージンの不在である。
「放っておいて良いんじゃないですか。勝手にいなくなったんだし、勝手に戻ってきますよ、きっと」
「そういうわけにもいかないでしょう。ワタシたちだけで戻って、誰に状況を聞くつもりなの」
「そんなの、その辺にいる人を捕まえて、教えてもらえば良いじゃない」
「それで教えてくれるならね」
気楽に考えるアンナをオヨンコアが窘める。
話せば話すほど、イージンの不在がウィレムたちにとって大きな痛手であることが明らかになった。テムルへの取り次ぎも彼がいなければ満足に出来ないのだ。テムルの方から声を掛けてくるのを待つしかないのなら、謁見は遙か先になってしまうだろう。
妙案が浮かばず三人が頭を捻っていると、ジンツーが盆をもって現れた。
「相談事のお供に、お香々を持ってきました。一休みされてはいかがですか」
優しい声に顔を上げると、日はだいぶ高くまで昇っていた。縁側より内には光が届かず部屋は薄暗い。時は昼間近といったところである。彼女の提案に従い、三人は一旦姿勢を崩して強張った身体を休ませた。
ジンツーがなかなか部屋を出て行かないので、ウィレムが不思議に思っていると、彼女から思いがけない申し出があった。
「偶々耳に入ってしまったのですが、先程の話し、力になれるかもしれません」
「貴方が、ですか」
「はい、こちらを持って行って下さいな」
彼女は薄い木の札を取り出した。表面に刻まれた文字に朱で色が入っている。
「イージンが不在の折り、何かあった時に私たちが偉い方を頼るための割り符です。これを渡せば、私たちでも力のある方に会える仕組みになっています。アルタン・テムル様の本営なら、この札でラシード様という方に会えるはずですよ」
聞けば、元々一枚だった札を二つに割り、互いに片方を持っておいて、片方がもう片方を呼び出す時、その札を会わせることで身分の証左とするのだという。そう言う札をイージンは幾つも作っていて、それぞれの札はタルタル人の有力者やその近習とつながっていた。
「でも、黙って使っても大丈夫ですか。後で貴方が叱られたりしませんか」
「怒るかもしれませんね。でも、あの子が私を叱るようなことがあるなら、それはそれで嬉しいことなんですよ」
ジンツーは言葉を切って目を伏せた。
彼女の言葉の意味が気にかかったが、それ以上尋ねるのは立ち入りすぎているようで憚られる。その代わりに、ウィレムは彼女の手を握った。
「もし、イージンが怒るようなら言ってください。僕が口添えしますから」
「ありがとう」と礼を言われ、自分が謝意を伝えていないことに気付いたウィレムは、慌てて礼を返してから割り符を受け取った。
翌朝、三人は馬で出発し、昼を過ぎた頃にテムルの本営に戻った。ラシードが彼らの天幕を訪れたのは、その日の晩のことだった。