第154話 故郷
テムル本営から半日ほど馬を走らせた場所に奇妙な集落があった。簡単な柵と堀で囲まれたなかに木の家が数軒並んでいる。草原と砂漠が広がるタルタロスでは貴重な木材を使っている上に、造りはエトリリアともタルタロスとは違っていた。
ウィレムたちの馬が近付くとそれに気付いた者が村の入口に集まってきた。先頭を行くイージンは、彼らの前で馬の脚を止めた。
「兄様、お帰りなさい」
駈け寄ってきた子どもたちが馬上を見上げて幼い顔を輝かせる。皆、タルタル人に似た平たい顔をしていた。ウィレムの見立てでは妹のシーラと同じくらいの年頃かと思ったが、幼く見える顔立ちを考えに入れると幾らか年上かも知れなかった。
イージンが馬から下りるなり、子どもたちは競うようにして馬から馬具をはずしにかかる。手慣れた手付きで鞍と鐙を馬の背から下ろし、轡を取って馬を自由にする。一人出遅れ、仕事に有り付けなかった少年が、ウィレムたちを見付けてイージンの陰に身を隠した。
「兄様、あの人たちは誰ですか」
「ああ、あいつらは客だ。お前が怖がるような相手じゃねえよ。そうだな、お前はあっちの馬から鞍をはずしてやんな。もうそのくらい一人で出来んだろ」
少年はイージンの陰から頭を出し、ウィレムたちをのぞき見る。アンナが少年に手を振ると、再び頭を引っ込めてしまったが、しばらくするともう一度頭を出し、それから小走りで近寄ってきて、そそくさと馬の背から馬具を下ろしはじめた。
少年が時折ちらちらと盗み見るので、ウィレムは彼に笑いかけてみた。しかし、その途端に少年は視線をはずし、余所を向いてしまう。
「難しいお年頃ですね。素直じゃないなあ」
「あら、可愛らしいじゃない」
アンナとオヨンコアが子犬でも愛でるように目尻を緩めて少年を眺めているので、ウィレムは二人の背を押して歩き出すように促した。年頃の少年にとって、年上の女性二人の視線に晒されるのは、さぞや居心地が悪かっただろう。
「ここは彼に任せよう。二人とも、あまりいじめちゃダメだよ」
「いじめてなんかいませんよ、ねえ」
「ねえ」
二人は顔を見合わせると声を合わせて笑った。
村で最も大きな屋敷にウィレムたちは通された。大きいと言っても、サルタクの大天幕を二回りほど小さくした程度で、庭もなければ垣根もない。
食事には雑穀を炊いたものと塩漬けの根菜、「トウフ」という名の酪に似たものが少し出た。質素な膳ではあったが、タルタロスに着いて以来、馬乳と酪ばかり食べていたウィレムにとっては、どの味も新鮮に感じられた。アンナに到っては、お代わりを頼んでオヨンコアに叱られていた。
困ったのは「ハシ」と呼ばれる食器である。「ハシ」は二本一組の細い木の棒で、食べ物を挟んで口に運ぶのが作法だと言われた。アンナはイージンの手本を見てすぐに使えるようになったが、ウィレムとオヨンコアは上手く使えない。「不器用は無理することないんだぜ」とイージンが鼻で笑うので、ウィレムは意地になって「ハシ」を使おうとしたが、オヨンコアは早々に諦めて手で食べ物を摘んでいた。
食事が終わると、ウィレムは縁側に座って村を眺めた。幾らか変わった所もあるが、大方、寂れた寒村という最初の印象が変わることはない。イージンの屋敷以外は掘っ立て小屋ばかりで、家畜もウシが一頭いるだけである。長閑な寒村は、それまでに見てきたイージンの印象とはどうしても噛み合わなかった。
「大したお構いも出来ず、ごめんなさいね」
声のした方に顔を向けると、イージンの義母、ジンツーだった。初老に少しとどかないくらいの歳だろうか。髪には白いものが混じり、顔には幾つかの皺が走る。だが、白い肌には染み一つ無く、背はすっきりと伸びていて、動きの一つ一つに淀みがない。静かな美しさを湛えた女性だった。
「こちらこそ、突然押しかけてしまって済みません。ご迷惑ではありませんか」
「いえいえ、とんでもない。アンナさんやオヨンコアさんが相手してくれるので、子どもたちは喜んでいますよ。それに私も。イージンがお客様を連れてくるなんて、初めてですから」
彼女がそう言って微笑むので、ウィレムも悪い気はしない。妙に気恥ずかしくなり、頭の後ろを掻いて誤魔化した。
「失礼な問かも知れませんが、ここはタルタル人の村ではないのですか」
躊躇いながらウィレムは尋ねた。村には天幕も張られていなければ、家畜もほとんどいない。代わりに収穫の終わった畑が畝の跡を寒々しく風に曝している。
ウィレムの問に、ジンツーはゆっくりとうなずいた。
「イージンは話していないのですね。あの子のお祖父様は、ここよりずっと遠く、カセイ国の東海の果て、ホウライと言う所から、遙々流れてきたのです。私も人伝に聞いた話ですけどね」
そう言うと彼女は一族がタルタロスに住み着くまでの由来をウィレムに話し始めた。全く初耳な上に聞いたことのない名前が幾つも出てくるため、ウィレムは何度も頭を抱えたが、その度に彼女は話を戻し、丁寧に説明してくれた。
最後に彼女は、
「イージンは色々難しい子ですが、どうか嫌いにならないでやって下さいね」
と頭を下げた。
「イージンて、タルタロスの人じゃないんだってね」
出掛けていたイージンが村に戻ってきた時、ウィレムはまだ縁側で微睡んでいた。居心地良さ気に緩んだ声を出す彼をイージンは呆れ顔で一笑する。
「誰が余計なことを喋りやがった。ジンツーか。年甲斐もなくはしゃぎやがって」
「良いじゃないか。それでイージンが害を被るわけでもないだろう」
「火の粉はどこから舞い込むかわからねえんだ。お前みたいなあんぽんたんに知られたとあっちゃ、世間には筒抜けだと思わなくちゃな」
「そんなに知られたくないのに、何で僕らをここに連れて来たのさ」
言い返した後、思い掛けずイージンからの応えが無かったため、ウィレムは肩透かしを食って狼狽えた。平静を装おうとしたが、視線はイージンの方ばかりに向き、動揺を隠しきれない。そんな彼をイージンは憮然とした表情で眺めていたが、いつものように、それを悪し様に言うことはなかった。
「別に理由なんていらねえだろう。なんとなくだよ」
「それは嘘だね。そのくらいなら僕にもわかる」
ここぞとばかりに語気を強めた。それを見てイージンの目が細くなる。
「ほほう、その心は?」
「君が何の理由もなく行動する訳ないじゃないか。何か考えがあって僕らを連れて来たんだろう。もしかして、天幕の前で僕とオヨンコアに声を掛けたのも、偶然じゃないんじゃないの」
ウィレムの言葉にイージンは口の端を微かに上げた。
「そこまでわかってんなら、後は自分で考えな。おいらが何をして欲しいかわかったら、答合わせしに来いよ」
そう言うとイージンは家の奥へと入っていった。
その晩、イージンは集落から姿を消した。