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第153話 草原の日常

 遠くから(ひづめ)が地面を叩く(にぎ)やかな音が聞こえてくる。ウィレムは遙かに広がる草原に目を()らした。土煙を巻き上げて馬の一群が向かってくるのが見えた。先頭を行く鹿毛(かげ)の馬の背で赤い髪が颯爽(さっそう)とひるがえっている。



「私が、いちばーん」



 馬群から飛び出し、最初に天幕の前まで戻ってきたアンナは(あぶみ)の上に立ち上がると、誇らしげに人差し指を掲げた。そのまま彼女は馬の脚を緩めつつ、ウィレムの前まで馬を歩かせた。



「やりました。私が勝つところ、見ていてくれましたか」

「もちろんだよ。やっぱり今日もアンナは速いね」



 競争で勝ったことが嬉しいのか、ウィレムに褒められたことが嬉しいのか、アンナは頬を(ほころ)ばせて満面の笑みを浮かべた。


手綱捌たづなさばきが見事なのはわかったけれど、少し大人げないんじゃないかしら。ほら、アナタが負かした小さな戦士たちが戻ってきたわよ」



 オヨンコアが示す先に、アンナと競っていた他の馬が次々に到着する。乗っているのはタルタル人の子どもである。少年ばかりでなく、少女も混じっている。



「ウィレムー。こいつ、何でこんなに速いんだよ。俺たちが負けるはずないのに」

「アンナは小さい頃から速かったよ。大人よりも速かったくらいさ」



 声を掛けてきた少年にウィレムはタルタル語で返事した。少年は悔しそうに歯噛(はが)みしていたが、アンナを(にら)みつけると指を一本立てて、「もう一回勝負だ」と気炎を上げた。アンナは受けて立つとばかりに手綱を振るう。



「私、もう一回勝ってきます。見ていてくださいね」



 馬の背で大きく手を振るアンナと少年たちをウィレムとオヨンコアは見送った。



「まるで大きな子どもですね」

「あの無邪気さはアンナの可愛いところだよ。それに、言葉がわからないのに、彼らとあんなに通じ合っている。僕には真似(まね)できないなあ」



 既に土煙しか見えない草原をウィレムはうっとりと眺めた。



「通じ合っていると言えば、先程のタルタル語、自然な感じで良かったですよ」

「今は勉強くらいしか出来ることがないからね。それに、僕のタルタル語が上達しているとしたら、それはオヨンコアの教え方が上手だからだよ」



 ウィレムの言葉に、オヨンコアは()えてタルタル語で「お褒め頂き光栄です」と返した。


 大会議(クリルタイ)でテムルが大王(ハーン)に即位してから一月が過ぎ、タルタロスの冬も盛りに入った。テムルが引き継いだ大王の本営(オルダ)は、気温差の大きい塔壁付近を避け、大穴に近い冬営地に宿している。

 改めてテムルへの謁見(えっけん)を願い出てはいたが、大王即位に伴う儀式や有力者たちとの会見など、他に優先させる用向きがあるようで、ウィレムは未だにテムルと会うことは出来ていない。ルイから預かった親書も(ふところ)のなかに入れたままである。



「こう手持ち無沙汰ぶさただと、流石に退屈してしまいますね。ご主人様は、遠駆(とおが)けなどはなさらないのですか?」

「僕は、ほら、手がこんなだから」



 そういうと、ウィレムは左手を開いたり閉じたりして見せた。ヴァルナラムとの戦いで負った腕の傷は、わずかな皮のよじれを残すだけになり、遠目にはそれとわからないほどに回復した。ただ、ものを握ろうとすると指に力が入らず、満足に(こぶし)をつくることさえ出来ない。手を開閉する動きもどこかぎこちなかった。



「怪我の具合はいかがですか。まだ痛みはあるのですか」

「心配してくれてありがとう。感覚は悪くないんだけどね、力を入れようとすると上手く指に伝わらない感じなんだ。それと寒さの所為(せい)かな、(たま)に傷が(うず)くんだよ」

「くれぐれも、ご自愛くださいね」

「大丈夫だよ」



 軽く応じるウィレム対し、オヨンコアは小股で距離を詰めると、身を乗り出して彼の顔をのぞき込んだ。



「そうは(おっしゃ)っていても、ご主人様はいざとなるとすぐに無茶をなさるんですから。その度に気を()むワタシやアンナの心もお察し下さい。くれぐれも、ご自愛、お忘れなきように」



 あまりの剣幕に圧され、ウィレムは何度も首を縦に振った。



「あっ、あれ、蹄の音がするよ。もう戻ってきたのかな」

「幾らあの子でも、そんなに速くはないでしょう。でも、確かに足音がしますね」



 話を()らそうとウィレムが耳に手を当てた。オヨンコアも頭上の耳をぴんと立てて音を拾おうとする。足音は緩やかな並足(なみあし)で二人のすぐ側を通っていく。



「二人してなにを可笑(おか)しな格好してんだ。うさぎの真似事だってんなら、おいらが狩人(かりゅうど)役をやってやろうか」



 馬上からイージンが声を掛ける。二人は耳に当てていた手を下げると、大袈裟に肩を落とした。



「何だ、イージンか。君こそどうしたのさ。近頃見かけなかったけど」

「気に食わねえ言い方だな。お前らと違って、こちとら色々と忙しかったんだよ」

「あら、将軍さまでもないのに、何がそんなに忙しいのかしら。それともアナタも小間仕(こまづか)えに鞍替(くらが)え? それなら、針仕事くらい教えてあげても良いわよ」

「雑用には違いねえが、針仕事は勘弁だ。男が裁縫(さいほう)なんて出来るかよ」



 そういうと一度は立ち去ろうとしたイージンだったが、何を思ったか手綱を引いて馬を止め、戻って来るとウィレムの顔をまじまじとのぞき込んだ。



「なっ、なにさ」

「いや、なに、いつ見ても情けねえ(つら)だと思ってな」

「なんだよ。悪態(あくたい)つくために戻ってきたのかい」



 (まゆ)を寄せるウィレムをイージンはしばらく眺めていた。そして、視線をはずし、幾らか空を泳がせた後、珍しく煮え切らない口調で、



「お前ら、どうせ暇だろう。うちの(さと)に呼ばれる気はねえか?」



 と、ウィレムたちを誘った。

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