第152話 嫌な夢
瞼を開けると知らない天井が目に入った。剥き出しの梁と屋根の下地板はタルタロスの天幕とは異なる造りをしている。ぼやけた触覚と隔たりを感じる聴覚から、目の前の光景が夢の産物であることをイージンはすぐさま理解した。
板の間に身を起こすと、視界のなかは赤く染まっている。焼けた木が弾ける軽やかで小気味良い音がそこかしこから鳴り、煙が辺りを包んでいるが息苦しさは感じない。
またこの夢かとイージンはため息を吐く。幾度となく見た夢だ。そして、それが自分の記憶でないこともわかっていた。幼い頃、祖父から聞いた昔語り、そこから彼が思い描いたつくりものに過ぎない。
おもむろに木の引き戸を開けて堂の縁に出る。生い茂る木々が館を囲み、そのさらに先には人の気配が幾つも群がっている。
目を凝らさずとも、その先の景色は良くわかる。僧形の大男が館を背にして立っているのだ。男の身体からは数え切れないほどの枝が伸び、歪な人影を描き上げる。その枝のように見えるものが、男を射貫く幾十、幾百の矢であることも知っていた。
生きているのか死んでいるのかは定かでない。男は根を張った大樹のように、ただそこに立ち続ける。大男を恐れてか、人の気配はそれ以上は近付いてこない。
目覚めは近い。祖父の昔語りはその辺りで一旦途切れ、続きはタルタロスに辿り着いた後の話しに飛んでしまうのだ。この夢の結末をイージンは知らない。
それでもわかることもある。話しの続きに僧形の大男が現れたことは一度としてなかった。幼い頃は特段疑問を感じなかったため、祖父に答を尋ねたことはない。
顔も知らぬ大男の背に、別の者の影が重なった。知っている者もいれば、知らない者の顔もある。彼らに通じるの、皆、既にこの世にいない人間ということだ。その影を打ち消そうと、イージンは強く頭を振った。
瞼を上げると、天幕の丸天井を支える木製の骨組みが見えた。
寝返りを打ち、寝床の端に置いておいた灯りに火を入れる。揺れる小さな光が軽い目眩を誘い、イージンは再び目を閉じた。
その夢を見た後は、必ずと言って良いほど寝覚めが悪い。頭は重く、胸は塞がり、四肢は怠く垂れ下がる。身体を起こすのも億劫だった。
祖父の話を聞いた時から不思議に思うことがあった。
「どいつもこいつも、なんで、命を懸けやがる」
声に出ていた。だが、応えはない。天幕のなかにはイージン一人しかいない。
自らの命を懸けるに足るものなど、この世には無いとイージンは考えている。何事も命あっての物種だ。だからこそ、自分は命を懸けず、他人の命を利用する側にまわれるよう常に心掛けてきた。他者に生殺与奪を預けるなど、死にたがりか、でなければ、ただの阿呆の行いである。
チッ、
イージンは大きく舌打ちした。目覚めていく頭が状況を思い出す。
企ては上手く進んでいた。後はチノ・ハンの死を待ち、隙を見て兵を挙げ、混乱に乗じてサルタクを亡き者にする。それで取引は成功するはずだった。
それだけにドレゲネ一派の謀を未然に防げなかったことが悔やまれた。何となれば、ケウを殺すことなど造作もないことだったのだ。
結局、実力者のサルタクが生き残り、テムルが大王となる。タルタル人にとって最良の、イージンにとっては最も都合の悪い結末に落ち着いてしまった。
テムルは若いが賢明な大王になるだろう。ラシードを筆頭に優れたか臣下たちがその脇を固めている。サルタクの戦力も厄介だ。覆すのは難しい。無駄な考えだとわかっても、ケウを大王にした方がましだったかも知れないと思ってしまう。
イージンは再度舌打ちをしてから身体を起こした。当分は雌伏の時が続くことになる。別の手立てを考える必要もあるだろう。
天幕の外に出ると仄暗い空には幾つか星が残っていた。陽は未だ昇っていない。