第150話 馬は雪原を行く
雪が浅く残る草原を二人を乗せた馬が駆ける。馬の鼻先から白い息が途切れることなく立ち昇っている。ケウたちの本営を脱け出してから三日、イージンは馬を走らせ続けた。雪の上を駆けさせて、馬の脚に負担は掛からないのかと尋ねると、他人の馬の心配よりも自分の身を案じるのが先だと、至極最もな言葉が返ってきた。
三日の間に二度、追っ手に見付かった。敵が背中に迫ると、イージンは左手の不自由なウィレムに手綱を預け、馬の尻の上とは思えない巧みな弓捌きで敵を撃退した。彼の放つ矢に射貫かれ乗り手を失った馬を捕まえ、乗り換えながら逃げてきたため、その時、彼らが跨がっている馬は数えて三頭目になる。お陰で休みなく駆け続けることが出来た。
「あのまま逃げてきて、本当に良かったのかな」
「なんだ。黙って毒を盛られるのを待つ方が良かったのか」
「それは御免だけど……」
ケウとその母ドレゲネの企みについては、馬上でイージンに聞かされていた。その瞬間、ウィレムがタルタル人に対して抱いていた牧歌的な異国情緒は、風に巻き上げられる塵のように吹き飛んだ。
殺されるのはもちろん御免だったが、ウィレムは何も出来ていなかった。サルタクの大会議不参加を認めさせたわけでもなければ、状況を覆すような方策が他に見つかったわけでもなかった。ケウの機嫌を損ない、二人して逃げ帰ることを考えれば、徒に状況を悪化させただけにも思える。
「イージンだって、成果は何も上がってないじゃないか」
背中越しに尋ねると、その拍子に、イージンは鐙に載せた足で馬の腹を叩いた。馬の背が激しく上下に揺れ、危うくウィレムは舌を噛むところだった。
「お前と一緒にすんじゃねえよ。おいらはやることは済ませてんだよ。それに、どうしてもサルタクを大王にしたいわけでもねえしな。そこんとこ、間違うなよ」
振り返るイージンの顔にいつもの嘲笑が浮いている。余裕の笑みか、はたまた、焦りを隠すための強がりか、その笑みの真意をウィレムは量りかねた。
「お前こそ、アルタン・テムルとラシードに何を話してたんだ。会ったばかりのお偉いさんと話が出来るほど、お前は世渡り上手だったか」
「器用に立ち回れないのは、この旅で嫌と言うほど思い知らされているよ」
ウィレムはため息とともに頭を垂れる。ガリアにいた頃は周りと対立することもほとんどなく平穏な日々を送っていた。それだけに、旅先でなにかと揉め事に巻き込まれることに少々辟易していた。協調性や物分かりの良さはそれなりに持ち合わせていると思っていたから尚更である。聞こえてくるイージンの失笑が耳に痛い。
「イージンはさ、“王”って何だと思う」
「なんだそりゃ、藪から棒に」
「テムル殿に聞かれたんだ。『王とは何だ』って」
ふーんと、何か物知り気な返事の後、イージンはしばらく黙り込んだ。考えをまとめているのか、それとも話しを勝手に切り上げてしまったのか。ウィレムが応答を催促すべきか考え出した頃、ようやく答が返ってきた。
「王ってのは、一番自由に見えて、その実、一番雁字搦めにされてる奴のことよ」
「なんだい、それ? 何を言っているのかわからないよ。謎掛けか何かなのかい」
「人に尋ねといて、その言い草はねえだろう。王って奴はよ、何でも自由にしているように見えるが、あれは、全てのことを自分で決めて、その責任を全て背負い込まなけりゃならねえのさ。しかも、自分の身の丈よりも遙かに遠くのものまでな」
予期せぬ言葉にウィレムは目を丸くした。すると、冷えた空気に瞳の表が晒され、刺すような痛みが襲う。何度か瞬きをしてから、ウィレムは目を細めた。
イージンの言い分を聞く限り、王とは大変窮屈な身の上に思える。少なくとも、普通に考えられている、崇高で威徳備える存在とは懸け離れていた。もし、彼の言う通りだとするならば、実の親兄弟と殺し合ってまで王位を得ようとする者の考えが理解できなくなる。
釈然としないウィレムに、「お前はどう答えたんだ」と、イージンが尋ねた。
「僕は、王は民を導く者だって答えたよ。そのために、王は“力”を持った人間でなくちゃいけないんだって」
「“力”ねえ」
イージンが含みのある口調で返す。
「だってそうだろう。サルタク殿とケウ殿、どちらが王になるべきかなんて、考えるまでもないことさ。“力”のない者が王になったら、国が乱れるだけじゃないか」
向きになるウィレムに、イージンは嘲りとは少し違う、意味深な表情を返した。
「いやなに、お前にしては上出来だぜ。ラシードの奴、お前からその言葉を引き出して、テムルに聞かせたかったんだろうしな」
ウィレムの頭上に幾つもの疑問符が浮いたが、イージンが言葉の意味を教えることはなかった。ただ一言、
「これで三つ目の道が開けるってもんだぜ」
そう言って、馬の脚をさらに急がせるのだった。