第149話 悩める賢弟
「誰か話を聞いてくれ。なんで僕が閉じ込められなきゃならないんだ」
放り込まれた埃っぽい天幕のなかでウィレムが最初にしたことは、外に呼び掛けることだった。だが、幾ら叫んでも返事はない。彼は仕方なく座り込んだ。
不思議と落ち着いていた。囚われの身に慣れたとは思いたくなかったが、手脚の自由が利く分だけ、コンスタンティウムで捕囚となった時よりも幾分かましな待遇に思える。なにより、すぐに命を奪われるようなことはなさそうだった。
一息吐いて辺りを見回す。出入り口は一つ。天井は低く、大人四人も入れば窮屈な広さしかない。粗末な椅子に手を置くと頼りない音を上げて軋んだ。牢獄ほどの圧迫感はなく、佇まいには狭いなりに落ち着きが感じられた。
「失礼する。そこにいらっしゃるのは、ガリアのグレゴリオ修道会師、ウィレム・ファン・フランデレン殿で宜しいかな」
突然の呼び掛けに驚いて顔を向けると、身を屈めた人影が小さな入口から天幕のなかへ入ってくるところだった。彫りが深く、目鼻立ちがはっきりとした顔立ちは、タルタル人よりもエトリリア人に近い。違うのは、浅黒い肌の色と口元に蓄えた髭。瞳は大きく、睫が長い。
「お返事頂けると有り難いのだがね。それとも私のエトリリア語は聞き辛いかな」
身構えるウィレムを余所に、男は流暢なエトリリア語で話し続ける。ガリア訛りが抜けないウィレムよりも余程上手い。
少し間を置いてから、ウィレムは男に応じた。
「僕がウィレムです。其方はどういった身分の方ですか」
「これは失敬、私はラシード・アルサウド。主から貴方への言伝を預かっている」
「僕に、ですか」
「そうです。主は、塔の最果てより世界の臍たるタルタロスへ至った貴方と、是非とも話がしたいと仰せです」
「貴方の主人というのは誰なのですか」
「お会いになればわかりますよ」
まるで掴み所のないラシードとのやり取りを一旦切り、ウィレムは少しの間考えを巡らせた。ここで不用意に誘いに乗って墓穴を掘るわけにはいかない。
「そのお召しは絶対ですか。それとも、僕に選ぶ余地は与えられていますか」
「お気に召すままに。ただ、御自身の置かれた立場は貴方も理解されているはず。私見を述べさせて頂けば、いずれ来たる危機を前に、手持ちの札は多いに越したことはないと思いますよ」
からかいを言う口振りではない。だが、礼儀正しくもどこか風上から物を言うような態度は、イージンによく似ていた。信用は出来ないが言っていることは最もらしく聞こえる。なにより、ウィレムには他に出来ることがなかった。
「わかりました。貴方の主人と会いましょう」
返事をすると、ラシードは唇の両端を微かに持ち上げ、少しの間待つように言って天幕から出て行った。
しばらくして戻った彼の後ろには別の人影が控えていた。
身を屈めて扉を潜る顔には幼さが残り、鍔のない帽子を取ると、一束に編んだ後ろ髪を借り上げた頭部に巻き付けているのがわかった。ラシードが動物の皮を地面に広げると、青年はその上にどかりと胡座をかいた。
「タルタル族の長たるボルジギン氏、チノ・ハン様が長子ドルジ様の御子、アルタン・テムル様で御座います。お会いになるのは初めてではありませんよね」
狼狽え、うなずくことしか出来ないウィレムは、ラシードに促されるままに軽いあいさつを述べた。テムルはラシードが訳するウィレムの言葉に耳を傾けながら、悩まし気にウィレムを見つめる。その表情の意図を量りかね、ウィレムは身体を小さく丸めた。
「テムル様は、最果てより至った貴方の見聞を頼りにしたいとお考えです。どうか、主に良き助言を頂きたい。これは私の願いでもあります」
「ぼ、僕が力になれることであれば、なんなりと」
間に人を挟む会話にも慣れてはきたが、間延びするやり取りがその時はやたらと息苦しく感じられた。相手は手を伸ばせば届く距離にいる。天幕のなかは季節に反して蒸し暑かった。
『王とはなんだ。お前は道すがら色々な君主を見ただろう。考えを聞かせてくれ』
容貌のわりに低く落ち着いた声がウィレムの耳に滑り込む。
ウィレムは自分の知る限りの王を思い浮かべた。
ヘレネスのロマノス王は威厳に満ち、王足る風格を持っていた。無憂城のヴァルナラムは峻烈で自身の理想を貫いた。風の噂に聞くゲルマニア皇帝オットーは、民への慈しみ篤く、戦場では無双の戦士だと言う。幼き日に聞かされた古代エトリリアの皇帝たちも、高い徳と巨大な力によって国を治めた。
勿論、ルイは特別である。ガリア王だから特別なのではなく、ルイが特別だからこそ、ガリア王たり得るのだ。国王としてのルイは良く知らないが、彼が明君でないはずがない。
「王とは……、統べる者ではないでしょうか」
『統べる者か。では、人々を束ね、まとめ上げてなんとする。ただ人が集まれば良いのなら、王などいなくとも同じだと思うが』
すぐには返答できず、ウィレムは口を閉ざし、頭を捻った。通り一遍の言葉で煙に巻くことも出来たが、何故だかテムルに対しては誠意を尽くすべきだと思えた。
黙り込むウィレムをテムルが急かすことはなかった。ただ、じっとウィレムを見つめながら待ち続ける。そんな二人を傍らのラシードが目を細めて眺めていた。
「導く、そう、人々を良き世へと導くことこそ、王にとって肝要なのです。神は天にあって人々の魂をお救いになります。王はこの世にあって政で人々を安んずる。そういうものだと僕は思います」
『導くか。天と比肩されるとは、なんとも厳しい重責よ』
テムルの顔が僅かに曇ったのをウィレムは不思議に思ったが、そのことを殊更取り上げる気にはならなかった。それほど、僅かな変化だったのだ。
「ウィレム殿、私も一つ宜しいかな。人々を統べ導くためには、やはり、王とは有能の士であるべきなのだろうね」
「それが民にとっての幸いでしょう」
隙を見て入ってきたラシードの問には、すぐさま答えた。
暗君の下では世が乱れることを、ウィレムも身に染みていた。
ウィレムが修道院に入ってしばらくした頃、ガリア王が死んだ。嫡子のロタールが王位を継いだが、これが愚昧な人物だった。政を嫌い、近しい者にこれを預け、自分は放蕩にふける。心ある者が諫めても聞き入れることはなかったという。やがて、王位を望む他の王族、野心を抱く貴族たちが入り乱れ、凄惨な跡目争いが起きた。結局、陰謀に次ぐ陰謀で多くの勢力は力を削がれ、仲介に乗り出した正統教会が柵みのないルイをガリア王としたことで、事態は取り敢えずの収束を見た。
その間、多くの民が争いに巻き込まれた。ウィレムが身を置く修道院にも多くの農民が逃れてきたが、皆痩せ細り、一様に恐怖で瞳を曇らせていた。彼らに満足な施しも出来ず、自分の無力さを恨み、一心に神に祈ったことをウィレムは忘れない。そのことを思えば、王とは人々を統べるに足る力を持っていなければならないのである。
『それでは、お前はサルタク叔父貴が大王になるべきだと思うのか』
あまりに率直な問に、ウィレムは目を丸くしてテムルを見た。そして、慌てて視線を逸らした。
『あの人は確かに優秀だ。聡明で戦も強く、民にも慕われている。なにより、あらゆるものを等しく同じ天秤に乗せることが出来る。そして、見聞きしたことのないものにほど、心を傾ける。特異な人だ』
テムルのサルタク評は、身贔屓が過ぎる嫌いがあるとは言え、概ねウィレムの見極めとも一致した。それでも、即答はしかねた。言葉一つ誤るだけで、どんな窮地に立たされるか知れたものではない。
返答できずに下を向くウィレムにとって、テムルが予想外の言葉を続けた。
『だが、あれは貧者の質だ。叔父貴は満たされることを知らない。あの人が大王となれば、いずれ塔全域を我が物にしようとするだろう。新たな物事を知れば知るほど、叔父貴はそれを手に入れるまで諦めない、そういう人だ』
まさか、思わず声が出掛かる。塔の全てを支配するなど出来るとは思えない。そして、万が一、サルタクがそのような野望を持っていたとしても、ケウが大王となるよりは余程ましに思えた。サルタクならば近臣の諫めに耳を傾けるだろうが、ケウではそうはいかないだろう。
「そ、それでも、暗君が立つよりは、良いのではありませんか」
テムルの立場を考えれば、ケウの即位を認めさせ、ルイの親書を渡すよう説得したいのだろう。彼を否定するのは危うい橋にも思えたが、ウィレムは婉曲な物言いでそれを拒んだ。何もケウが暗君だと言ったわけではない。
ウィレムの答にテムルの顔が険しくなる。眉間に皺が寄り、唇は強く結ばれた。
テムルが口を開こうとした刹那、扉が上がり、長い腕が天幕のなかに飛び込んできた。手はウィレムの胸座を掴むと彼を外へと引き摺り出す。物が飛び散り、地面を転がる音がした。
「用は済んだ。さっさとずらかるぞ」
イージンが叫ぶ。
天幕から出る直前にウィレムが見たものは、ラシードのしたり顔と、神妙な面持ちで言葉を紡ぐテムルの姿だった。
「俺は――、……べきなのか」
僅かに聞き取れたテムルの声がウィレムの耳のなかに残る。
その意味を考える間もなく、ウィレムはイージンに引かれて雪の上を走り出していた。