第148話 女禍の兆し
タルタル人の貴人の本営は、大天幕を中心にして左右に中小の天幕が列を成す。一つの天幕を一部屋と見なすなら、その天幕群は宛ら巨大な王宮の様相を呈している。そんな群がる天幕の一つ、大天幕に程近い真っ白な屋根の上に、イージンは音もなく降り立った。
眼下には馬と戯れる子どもや立ち話をする女たち、馬乳酒をちびちびやっている老人たちも目に入る。誰も天幕の上に登るイージンに気が付かない。タルタル人が昼間に空を見上げる習慣がないことをイージンは良く知っていた。音さえ立てなければまず見つかる心配はない。勝手知ったる人の家、そんな言葉が頭に浮かぶ。
開閉できる屋根の頭頂部分から静かに天幕のなかに滑り込むと、丸天井の骨組みにぶら下がりながら、下の様子をうかがう。目当ての天幕の場所を十分に確認してから忍び込んだとは言え、目標の人物が留守では骨折り損である。
開いた頭頂部に向けて天幕内の空気が昇ってくる。上昇気流に乗って階下に沈殿していた淀みが襲い、イージンは思わず顔を背けた。濃厚すぎる甘い香の薫りに、咳き込みそうになるのを必死に耐える。細い目をさらに細めて苦悶の相を浮かべながらも、イージンは目的の人物が天幕のなかにいることを確信した。
「母上、余はどうすれば良いのですか」
「ああ、可愛いケウ。此方にいらっしゃい。心配することは何もないのですよ」
立ち昇る香りに似付かわしい、甘ったるい声が聞こえる。聞く者に吐き気を催させる口調というのもなかなかに珍しいものだと、イージンは内心で毒突いた。
天幕のなかにいるのは、先程ウィレムと接見したケウ、そして、彼の実母にして、父ドルジの死後、彼が相続したドレゲネ后である。タルタル人には父親が死ぬと、その妻を息子が娶り、父親に代わって面倒を見る風習があった。
「でも母上、サルタクは大会議に来ないって言うんだよ。奴がのこのこやって来たところを殺してしまう手筈じゃなかったの」
「大丈夫。今、こうして奴の本営に向かっている途中なのです。此方が出向けば、奴も逃げることは出来ないでしょう。出し抜く方法など幾らでもあるのですよ。いざとなれば、お祖父様にしたように一服盛ってやれば良いのです」
子を抱く母の笑みがこれほど醜悪に見えるものかと、イージンは嘲笑を浮かべる。ケウのあまりの愚鈍さに、一度は、彼を大王に仕立て、傀儡にするほうが都合が良いかとも考えたが、彼女がいる限り、そう上手くは運びそうもない。
「毒婦め。小賢しい女はこれだからイヤなんだ」
彼女の抜け目なさ対する僅かな称賛と、そのことを前以て知ることが出来なかった自分への口惜しさから、イージンは独りごちた。
チノ・ハンの老齢を考えれば、跡目争いを見越して蠢く輩がいるのは当然だった。実際にイージンの耳には幾つかの動きが伝わってきている。しかし、そのなかにドレゲネ一派の話しは一つとして無かった。ましてや、彼女がチノ・ハンを毒殺するなど、寝耳に水である。
チノ・ハンの暗殺自体はイージンも考えたことがある。彼らの計画において、大王の死期を掴むことは最も肝心なことだった。それでも年老いた大王を殺すことが出来なかったのは、常に惚けた笑みを浮かべながら、瞳の奥底では全てを見透かし、それでも尚、あらゆるものを許す、そんな白髭秀頭の老人を、自分がどこかで嫌い切れていなかったのだと、今更になってイージンは気付いていた。
だが、結局そのことでドレゲネに遅れを取ったのならば、それは怠慢だったのだ。居心地の良さに安住し、優先するべきものを見失ったことは不覚以外なにものでもない。
握った掌が僅かに湿っていた。気が付いて、噛み締めていた下顎の力を解く。掴んだ木材が微かに軋んだが、その音はケウとドレゲネの耳にはとどかなかった。
「そういえば、ガリアとかいう所から祈祷師が訪ねてきたのでしょう。どんな男だったか聞かせてくれますか」
「なんだかひ弱そうな奴だったよ。顔は白いし、服は汚いし。そのうえ、ガリア王の親書を余に渡そうとしないんだ。母上、あいつも一緒に殺しちゃってよ」
「そのうちにね。今は他にやるべきことがあるでしょう。それに、お前が大王になれば、きっとその者も大人しく親書を差し出しますよ」
案の定、ウィレムが跡目争いに巻き込まれていることに、イージンは苦笑した。どうにも揉め事に縁がある奴だとは思っていたが、今回に限ればウィレム自ら首を突っ込んだ、言わば、自業自得である。それでも、巻き込まれたからこそ、ウィレムにも利用する価値が出てきたとも言える。どう使えば自分たちのために役立つか、そんなことを頭の片隅で考えていると、ケウたちの話題は、ウィレムからイージンへと移っていた。
「そんな悠長に構えていても良いのかなあ。あいつを連れて来たのはイージンなんだよ。奴もサルタクの味方になったのかも知れない」
顔を青くするケウの背をドレゲネが優しく撫でる。まるで母親が幼子をあやすような手付きだが、小太りの青年を相手にやっているのだから、寒気を誘う。
「大体、あいつは何なんだよ。普段はタルタロスを留守にしているくせに、いつの間にか舞い戻ってきて、またすぐいなくなるし、かと思うと一族の寄り合いにもふらっと顔を出したり。余はあいつが誰かに命令されたり、お咎めを受けているのを見たことがないよ。なんであんな身勝手が許されるんだよ」
ケウの声に、「大王の位を掠め取ろうっつうお前に比べりゃ、大した我が儘を言ってねえがな」と、イージンは呟いた。そこで苛立っていることを自覚した。
「ケウは知らなかったのですね。あれはね、お前の曾御祖父様とイージンの祖父の約束なのです。流れ者だった奴の祖父を曾御祖父様が大層お気に召されてね、大王の手許に身を置く代わりに、色々な身勝手をお許しになったそうですよ。その約束を反故に出来るのは、時の大王だけなのです」
流石に良く知っていると感心しながら、イージンは心が冷めていくのを感じた。深くものを考える時はいつもそうだった。感情が熱を失って固くなり、理だけが満ちていく。そうなると、どれだけ冷酷なことでも大抵のことには躊躇しない。
ドレゲネは余計なことを知りすぎている。他にも拙いことを知られている可能性もあった。彼女を生かしておくべきではないと理が言っている。ならば、如何にして殺すか、他の者に罪を着せるとして誰が適任か、頭のなかの歯車がかたかたを音を立てながら、思考を組み上げる。
「どうしてもと言うのなら、お祖父様にしたように毒を使いますけどね」
ドレゲネが懐から水晶の小瓶を取り出した。彼女が摘み上げると瓶のなかで透明な液体が泡を立てて揺れる。老い先短い老人から残り少ない余生を力尽くで奪った液体は、無慈悲なまでに透き通っていた。
「奴も人の子。母親なり、妹なりを一人二人殺してみせれば、すぐに言うことを聞くでしょう」
一瞬、冷め切った心に熱が走る。だが、その熱も瞬く間に消え失せた。多少驚くことはあっても、心の揺らぎはすぐに静まる。そういった訓練を幼い頃から積んできた。家族が目の前で惨たらしく殺されようと、冷静でいられるはずだった。
心は月下の寸鉄の如く冷めている。だが、身体は違った。
無意識に強く握った手が自らの汗に滑って対象を失う。支えをなくしたイージンの身体は重さに任せて天井から下に落ちた。
「何だ、何だ。おい、誰か、誰かいないか。怪しい奴が落ちてきた。早く来い。早く来て、余と母上を守れ」
ケウの甲高い叫びに応じて数人の男たちが天幕のなかへ飛び込んでくる。
着地に失敗し、身体をしたたか地面に打ち付けたイージンだったが、頭はすぐに次へと切り替わっていた。
脚は痛みなく動く。逃げるならば早い方が良い。ケウを人質にとも考えたが、それでは時間が掛かり過ぎ、逃げる暇が無くなりそうに思えた。
イージンは迷わずケウ目掛けて突進した。
身体が傾く。走り出すと左肩から先の感覚が朧気だった。
兵が二人、イージンの前に立ちはだかる。
振り下ろされる棒をすんでの所で躱すと、一転、ドレゲネの方へ向かう。
悲鳴を上げて後退る彼女の腕を掴んで引き寄せる。彼女の手から小瓶が落ちた。
その時、入口からさらに数人の男たちが姿を現した。
そちらに向けて、ドレゲネの身体を放り投げる。
男たちが彼女を受け止める隙に、地を這うようにその下を潜り抜けて外へ出た。
背中に何本もの手が伸びる。掴まれた上着は脱ぎ捨てた。
ウィレムと一緒に行動するようになってから、思い通りに行かないことが多い。
イージンは脚を止めずに舌打ちすると、ウィレムが捕らわれている天幕へ向かった。