第145話 巻き込まれた大騒動
「ご主人様、お伝えしたいことが御座います」
手負いの青年をサルタクの本営から来た人間に預けた後、人目をうかがいながら、オヨンコアはウィレムに耳打ちした。深刻そうな声色にウィレムも少しばかり気圧される。
「先程、青年なのですが、何やら不穏なことを言っていました」
「わかった。歩きながら聞くよ」
頻りに耳と鼻を動かして辺りを警戒しているオヨンコアを促し、三人は宛がわれた小さな天幕へと向かって歩き出した。
「彼は最後に、『オッチギン様が暗殺された。クリルタイに行ってはならない』と呟いていました。どう思いますか」
「なによそれ、暗殺なんて、物騒な感じ」
アンナは思ったままをすぐに口にしてから、オヨンコアの表情が思いのほか固いことに気付き、おずおずと言葉を切って、大人しくなった。口調こそ軽率だったとは言え、ウィレムも彼女と同意見である。彼女が気落ちしないよう、額を軽く撫でてやった。
「ここでも“クリルタイ”か。タルタロスで、なにが起きているんだろう」
ウィレムとオヨンコアは首を傾げる。だが、考えたところでなにもわからない。
「あの、わからないなら、尋ねてみたら良いんじゃないですか」
「尋ねるか。教えてくれるかな。僕らはここに来て日も浅いし、余所者だよ」
「いるじゃないですか。それなり付き合いがあって、遠慮なく訊ける相手が」
アンナの言葉に考えを巡らせ、ウィレムとオヨンコアはほぼ同時に手を打った。
「それで、おいらを呼びつけて何用だ。こちとら色々忙しい身の上なんだがな」
翌日、ウィレムたちの天幕をイージンが訪れた。
彼の目の下には濃い隈が出来ており、顔色も幾分か青白さを増している。目は赤く充血していた。
「今ここでなにが起きているのか、教えて欲しいんだ」
「そんなことか。お前らには関係ねえことだ。黙って事が収まるのを待ってな」
イージンは眉の頭を少し寄せると、立ち上がってウィレムに背を向けた。
「待ってよ。僕らもここに居る以上、関係ないことはないだろう。事情がわからないと自分たちの動き方も決められないじゃないか」
イージンはウィレムの言葉を無視して出て行こうとする。そんな彼の前にアンナとオヨンコアが立ち塞がった。イージンのこめかみに一本の青筋がつうと浮いた。
「退けよ」
彼は雑な手付きでアンナを押し退けようとしたが、彼女はびくともしない。
「力比べなら負けないわよ」
「それに、ワタシたちは昨夜の青年について、アナタたちに伝えていないことがあるのよ。話だけでもしていった方が良いじゃないかしら」
イージンはその細い目で二人を交互に眺めた後、観念したように席に戻った。
「まだ大っぴらにすんじゃねえぞ。本当なら口に出すのも避けてえんだからな」
「前置きは良いから、早く話しなさいな。ワタシたちの口だって軽くはないわ」
オヨンコアに煽られ、イージンは渋々話し始めた。言葉を短く切り、話す内容を慎重に選んでいるようだった。
「タルタル人の大王、チノ・ハンが死にやがった。昨日の黒服は、それを伝えるための使者だったんだ」
思いがけない言葉に、ウィレムの思考は一度止まった。耳から入った音が頭のなかへ流れ込み、それを何度も反芻することで、辛うじて言葉の意味を理解する。
死んだ大王とは、ウィレムがルイの親書を届けるはずの相手である。その人物が亡くなったのならば、ウィレムは誰に親書を届ければ良いのだろうか。目の前まで来ていた旅の目標が霞の彼方に消えていく思いがした。
「それであんなに慌ててたのね。それじゃあ、“クリルタイ”っていうのは何?」
「そっちの話を先に聞かせろ。それに、何故“クリルタイ”のことを知ってやがる」
動揺して言葉を失ったウィレムに代わり、オヨンコアが話を進める。イージンの方はいつもののっぺりとしたきつね顔から、苛立たし気な表情に変わっていた。声の調子も幾分か低い。
「昨夜の彼が言っていたの。『クリルタイに行くな』って。さあ、こちらは話したわ。次はそちらが話す順番でしょう」
イージンの表情が険しさを増す。黙って頬杖を着くと、逆の手で顎を擦りながら視線を宙に走らせ、何事か考えを巡らせていた。
「クリルタイってのは、タルタル人の大会議だ。各地の有力者が一同に会する」
「大王が死んだから集まるわけね。でも、なんで行っちゃいけないのかしら」
重い口を開いたイージンに、オヨンコアがさらなる問を浴びせ掛ける。舌打ちしたイージンは、「これだから、賢しい女は……」と毒突いたが、オヨンコアはけろりとした顔で答を催促した。
「次の大会議で大王の後継者が決まる。だが、サルタクの奴が行けば、殺される」
「なんでそうなるのさ。サルタク様が殺される謂われなんて、ないじゃないか」
我に返ったウィレムの声に三人の視線が集まった。ウィレム本人が思う以上に素っ頓狂な声が出ていたのだ。
イージンは毒気を抜かれたように深いため息を吐くと、詳しく話し始めた。
タルタロスでは末子が親の遺産を相続することが一般的である。チノ・ハンの末子であるサルタクは、順当に行けば大王の位を引き継ぐことになるのだが、それを快く思わない者がおり、彼を亡き者にして大王の位を掠め取ろうと画策しているのだという。相手は手薬煉引いて彼の到着を待っているのだ。
「大体、大人物が死にゃ、部族全体で喪に服してからクリルタイを開くもんだ。大王が死んだなら二年は喪が明けることはねえ。だが、おいらは一年前、エトリリアに立つ時にチノ・ハンの爺に会ってんだよ。奴ら、自分たちに有利なクリルタイを開くために、爺の死んだ日を勝手に繰り上げやがった」
「そこまでする相手なら、参加者への手回しも済んでいるでしょうね。なるほど、『オッチギン様が殺された』というのも、その一環ですか」
「この女、まだ情報を隠してやがったのか。オッチギンつったら、チノ・ハンの兄貴で、サルタク最大の支援者じゃねえか」
イージンとオヨンコアのやり取りを聞きながら、ウィレムは別のことを考えていた。新たな大王がガリアに対して好意的な人物ならば問題はない。だが、ガリアに悪意を抱く者、或いは、話の通じない粗暴な者ならば、同盟を結ぶどころか、親書を渡すことさえ出来ないかも知れない。最悪の場合、タルタル人がガリアの敵に回ることも考えなければならないのだ。タルタロスからの帰還さえ覚束無くなる。
「適当な理由をつけて、会議に出るのを断れば良いじゃない」
「当面はそうするだろうよ。だが、いつまでも召し出しを断り続けりゃ、不審がられて形勢が悪くなる一方だぜ。時間を稼いだところで、元より後手に回ってる上に、サルタクの野郎、搦め手から攻めんのはそれほど上手くねえ」
アンナとイージンの声が布一枚隔てた所から聞こえてくるような気がした。
相手は手練手管を弄して大王位を手に入れようとする輩である。同盟が成ったとしても、どこまで信用できるのかわからない。現状がガリアにとって好ましくないことだけは理解できた。サルタクの身も心配ではあるが、それ以上に、自分に降りかかるかもしれない火の粉をどのように払うかを考えなければならない。
「サルタク様が生きる術は、なんとかして大王に成られる以外になさそうですね」
唐突に、オヨンコアの言葉が鮮明に聞こえた。頭のなかに積み重なった不安が、くるりと引っ繰り返り、想いもしなかった答を導き出す。
先のことを憂えるよりも、出来ることをするべきなのだ。大王は未だ決まっていない。ガリアにとって不都合な人物の即位を案じるのなら、ガリアにとって都合の良い人物を大王に即位させれば良いのである。
「イージン、もう一度サルタク様に謁見出来ないかな。僕に考えがあるんだけど」
急に声を上げたウィレムを、イージンはまじまじと見つめた。彼が相手の真意をうかがう時にいつもする動作である。
「まずは話を聞かせろよ。内容次第で、動いてやっても良いぜ」
イージンの細い目が冷たく光る。
「僕の考えは、――」
話し始めたウィレムの口をオヨンコアの手が塞いだ。驚いて言葉が切れる。
「御無礼、お許し下さい。お話をされる前に、確かめることが御座います」
薄い刃のようなオヨンコアの視線が、イージンに突き刺さる。
「アナタはサルタク様を大王にしたいのですか。それとも、他の方の味方ですか。立場を明らかにしない人間に、これ以上の話は出来かねます」
イージンは目を見開き、その後、頭を掻きながら、「これだから、賢しい女は」と呟いた。その表情に苛立ちの色はなく、どこか楽し気な笑みが浮いていた。