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第144話 転変する激流

 黒い馬上服の男が入ってくるなり、宴席の空気が一変した。話し声が一瞬で消え、宴の喧噪に代わって、不安気なささやきが場を満たしていく。

 サルタクの命令で料理が下げられ、家臣たちも整然と列を組んで座り直す。ウィレムたちは、半ば追い出されるように、大天幕から外へ出た。



「まだお料理が残っていたのに」



 何度も大天幕を振り返るアンナの横を、タルタル人が慌ただしく往き来する。大天幕へ急ぐ者もいれば、フェルト製の扉を上げて、足早に飛び出してくる者もいた。皆、一様に表情を強張(こわば)らせ、顔はうつむき加減である。



「こんな事なら、先にお肉を食べ切っちゃえば良かったです」



 唇を尖らせ、ため息を吐くアンナに、「しょうがないよ」と慰めを言いつつも、ウィレムの頭にはある言葉が引っ掛かり続けていた。



「ねえ、オヨンコア。“クリルタイ”って知っているかい」

「“クリルタイ”ですか。存じませんが、それが何か」

「イージンがさっき言ってたんだ。『こんな時にクリルタイか』って」



 三角の耳を垂らして少し考え込んだオヨンコアだったが、やはりわからないと言って、済まなそうに頭を下げた。


 ウィレムは、再度、大天幕での出来事を思い出す。扉が上がり、黒服の男が姿を現した途端に状況は変わった。男が何か言葉を発したわけでも、動きを見せたわけでもない。そうなると、男の姿そのものに何かタルタル人のなかでしか通用しない目印のようなものがあるのかも知れなかった。タルタル人の慌てようと男の黒い色の服に、ウィレムは言いようのない胸騒ぎを感じていた。


 普段よりも幾分か重い足取りでウィレムは自分たちの天幕に向かう。考え事をしているため、右へ左へふらふらと進み、大分遠回りをすることになった。

 サルタクの本営(オルダ)をあちこちに迷い込むと、大小様々な天幕が集まっていることがわかる。一般のタルタル人が暮らす簡素な天幕以外にも、正統教会のエトリリア十字を掲げる天幕もあれば、見慣れない飾り文字が刺繍された天幕もある。ルーシやダキアのものと思われる天幕もあった。想像以上に多様な人々が集まっている。


 本営の周りに張り巡らされた縄を越える。既に喧噪は去っていたが、ひりつく夜風が肌を刺した。踏み出す度に草の葉がかさかさという音を立てて、耳の奥をくすぐる。



「ご主人様、何者かがこちらに近付いてきます。この足音、馬です」



 オヨンコアが頭上の三角耳をぴんと伸ばした。彼女の言葉に反応し、アンナがウィレムの側へと駈け寄る。しばらくすると、ウィレムの耳にも馬の(ひづめ)(せわ)しなく大地を蹴る音が聞こえるようになった。


 星の光を遮り、夜空と大地の間に馬の輪郭が浮かび上がる。馬は一頭、乗り手は馬首にもたれ掛かっているようで、その姿は判然としない。

 月明かりが馬を照らし、その姿が(あら)わになった時、馬が身体を大きく傾けた。背中に(また)がる乗り手の身体が滑るようにして大地に落ちる。



「行ってみよう」

「待って下さい。無暗に近付くのは危険です」



 オヨンコアが制止する。



「今の落ち方、どこか怪我をしているのかも知れないよ。僕の身を案じてくれるのは有り難いけれど、アンナが側にいるんだから、危険なことなんて滅多にないさ」



 言いながら、ウィレムの足は既に動き出している。「私がいるから、大丈夫よ。任せといて」とアンナに肩を叩かれ、オヨンコアは渋々主人の後を追った。


 倒れ伏した男を抱き上げると、それはタルタル人の青年だった。低い鼻と彫りの浅い顔、束ねて結った髪が彼の素性を明らかにしている。着ているものもイージンと同じ馬上服だった。

 青年は口で荒い呼吸を繰り返し、苦しそうに顔を(ゆが)める。彼の背に手を回すと生温かい(ぬめ)りに触れた。驚いたウィレムが腕を引くと、手は赤く染まっていた。



「この人、背中を斬られている。アンナは僕らの荷物から薬を取ってきて。オヨンコアは本営に行って人を呼んできて。出来るだけ早く」



 やっとのことでウィレムに追い付いた二人は、事態が呑み込めずに固まった。だが、アンナはすぐに振り返ると(あて)がわれた天幕に向けて駆け出した。


 一拍遅れてオヨンコアが走り出そうとした時、息も絶え絶えな青年の口から(かす)れた言葉がこぼれ落ちた。だが、ウィレムには言葉の意味がわからない。返事をする代わりに彼の手を強く握った。

 脚を止めているオヨンコアに気付き声を掛けると、彼女は我に返り、サルタクの本営へ向かって一目散に走って行った。

 彼女の背を見つめるウィレムの腕のなかで、青年の身体から力が抜けていった。

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