第143話 肉を食う
「これ、一体何の肉だろう」
器のなかで白い湯気を上げている肉塊を前にして、ウィレムは小さくつぶやいた。彼らはサルタクの招きに応じ、宴の席にいる。
鼻腔を貫き、脳に直接突き刺さる芳ばしい匂いは、間違いなく火の通った肉の香りである。肉塊の表面を包む茶色い焼き目の上では、脂が小さな泡を弾けさせて軽快な音を立てていた。
「ドウシタ。ドンドンタベロ」
主席のサルタクが馬乳酒の盃を呷りながら、勧める。だが、ウィレムの手は一向に肉に伸びなかった。
ウィレムの手を止めさせたのは、道中で聞いた、タルタル人の噂話だった。
タルタル人は人里を襲う時、食糧や財宝と一緒に人も攫っていく。そして、その人が元いた場所に戻ったという話しはとんと聞かないのだそうだ。そのため、人々は口々に噂した。タルタル人は未開の野蛮人である。連れ去った人々をウサギやカモのように食べているに違いない。だから、連れ去られた人たちは戻らないのだと。なかには、タルタル人が口髭を生やすのは口元から垂れる人の血の跡を隠すためだという者もいた。
元よりウィレムも噂を鵜呑みにしていたわけではない。だが、いざ目の前に見知らぬ肉料理を出されると、怖じ気付いて尻込みしてしまう。
恐る恐る肉塊を切り分けてみると、ナイフは抵抗なく肉に入った。一度細かく刻んだ肉を再度固めて焼いているようである。肉塊の断面はきれいな褐色を示していた。野性味あふれる肉の匂いに、口内には唾が溜まっていたが、それでも、一抹の不安がウィレムの手を押し留めていた。
主人が料理に手を付けないため、後ろに控えるアンナとオヨンコアも料理を食べることが出来ないでいる。アンナが物欲し気な視線を送り続けていることにも、ウィレムは気付いていた。彼女の食欲はすっかり戻っていた。肉を吐き出すようなこともない。
困惑するウィレムを見て、部屋の隅でイージンが唇を吊り上げた。
「サルタクよう、こいつ、人間の肉を食わされんじゃねえかって、びびってんだよ。そうだよな、ウィレム」
イージンの声は天幕中に響いた。その声に宴席のざわめきが静まる。ウィレムは驚いて辺りを見回した。彼ら以外にもサルタクの家臣たちが宴に呼ばれているのだ。彼らの機嫌を損ね、屈強なタルタル人を敵に回すようなことはしたくない。
ウィレムは息を呑んで周囲の様子をうかがっていたが、タルタル人はイージンに視線を向けただけで、すぐにそれぞれの談笑に戻っていった。
「エトリリア語を理解しているのは、サルタク様だけのようですよ。単にイージンが大声を出したから注目しただけみたいですね」
オヨンコアが耳打ちする。見ると、イージンがさも愉快そうに嘲笑を投げ掛けていた。
「ダイジョウブだ。ソレはヤギのニクダカラな」
サルタクの豪快な大笑にウィレムは胸を撫で下ろす。言われてみれば、コショウや香草の香りの影に隠れて、ヤギ肉特有の強烈な臭みが漂っていた。
「ハンブルクから連れて来た奴に考えさせた、供応のための飯だそうだぜ」
初めから全て承知していたのだろう。にやつくイージンを、ウィレムは鋭い目つきで一睨みした。
肉の皿に舌鼓を打ちながら聞いた話によれば、タルタル人が敢えて動物を殺してまで食べることはほとんど無いらしい。家畜は荷物の運搬と乳を搾るのが主な役割なのだそうだ。注意深く見て見ると、肉の皿が並んでいるのはウィレムたち三人の前だけで、他の者の前には酪の乗った皿と、馬乳の盃があるだけだった。
『ウマもヤギも人も、皆等しく天が与えた恵みだ。無暗に殺し、無駄に費やすようなことを、タルタルの男がすることはない』
人と家畜を同列に扱うサルタクの言葉にウィレムの心は一瞬ささくれ立ったが、それ以上に、詰まらない噂を信じ、目の前の相手を一方的に野蛮人だと決めつけた自分の狭量が恥ずかしかった。居たたまれなくなり、自然と背中が丸くなる。
一見すると、サルタクの風貌は未開の非文明人である。髪には頭垢が目立ち、平らな顔も垢っぽい。だが、彼の暮らしを見て、その言動に触れれば、彼が単なる蛮族だと断じることは明らかな間違いだとわかる。片言ではあるがエトリリア語を操り、家臣に対しても王としての振る舞いを欠かさない。器楽を好み、エトリリアの文化にも旺盛な興味を示している。
『天地の間にあるものは、全てが天からの授かり物だ。必要な時に、必要な分だけ取れば良い。自ら戦い、勝ち取らなければならないものなど、大王の椅子くらいのものだろうさ』
サルタクが声を上げて笑うと周りの部下たちも応えて笑う。低い声が重なり合って、大天幕の壁布を震わせた。
突如、大天幕の扉が上がり、顔面蒼白の取り次ぎの者と共に黒い馬上服の男が現れた。その途端、笑い声は潮のように退いていった。サルタクの顔から瞬く間に酒気が抜け、イージンが珍しく動揺を隠しきれずに、目を頻りに瞬かせる。
ウィレムの耳に苦々しくつぶやくイージンの声が届いた。
「クソ、こんな時にクリルタイだと」