第142話 サルタクとの謁見
ウィレムが目を覚ましたのは、祓いの儀式から三日後のことだった。微熱に見舞われ、寝込んでいたらしい。宛がわれた天幕の外に出ると、穏やかな風が彼の身体を吹き抜けた。不思議と肩は軽く、旅の疲れがきれいさっぱり消えていた。目の前の大草原に走り出したいと思えるほど、清々しい気分である。
「倒れた時にゃ、どうなることかと思ったがよ、思いの外、元気そうじゃねえか」
イージンの口振りにウィレムは堪えきれずに吹きだした。
「心配してくれたんだ。僕を無事にタルタロスへ届ける約束は、もう疾うに果たされているのに」
「うるせえ、図に乗るな。お前の心配なんぞ、誰がするもんかよ」
イージンは口を尖らせる。タルタロスに着いてからも彼はウィレムたちへの態度を変えない。ウィレムはそのことを嬉しく思った。“友情”などと呼べる類いのものではないが、彼との間には確かな結びつきを感じていたからである。
「じき、サルタクからの呼び出しがあるだろうぜ。準備は出来てるか」
「時々使いの人が尋ねてくるよ。色々訊かれるけど、あまり手応えがないんだ」
ウィレムは顔を曇らせる。何度も同じ質問をされるので、自分たちがまともに扱われているのか不安になっていた。サルタクに会えるというのも、イージンの口から初めて聞いたことだった。
「サルタク様というのは、どんな方なんだい。タルタル人の王様なのかい」
「あいつは大王の末子で、ここらを任されてる王の一人だ。人となりは……、まあ、会えばわかるだろうよ」
意味有り気に言葉を濁すイージンを奇妙に思いながらも、そういうものかとウィレムは納得した。そして、彼の言葉通り、その日の昼頃にやってきた使いの者が、翌日の謁見をウィレムに伝えた。
ウィレムは、張り巡らされた縄を越えてサルタクの本営に足を踏み入れるなり、息を呑んだ。初めて間近で見た大天幕の大きさは教皇領に建つという大聖堂を思い起こさせ、その周囲に集まる他の天幕と併せると、さながら巨大な都市の様相を呈していた。もし、本営が動くところを見ていなければ、その天幕群を車に乗せて移動するとは到底想像できなかっただろう。
持ち物を検められ、武器と刃物を使いの者に預けると、いよいよ南面する扉が上がる。大天幕のなかへ招かれる時、緊張のあまり手と足が一緒に出てしまい、ウィレムは危うく敷居を踏みそうになった。
「いいか、天幕のなかへ入る時、敷居を踏んだ奴は誰であろうと死罪だからな」
すんでのところでイージンの忠告を思い出し、体勢を崩しながら敷居の先に足を降ろす。そのため、ウィレムは前屈みの無様な姿で天幕へ入る羽目になった。
天幕のなかは外で想像したよりも広い空間が広がっている。天井は高く、圧迫感は全くない。梁や骨組みは鮮やかな飾り布で隠され、黄金の調度品が光り輝く。弦楽の調べが静かに場を満たし、そこが宮廷であることを否が応にも感じさせた。
ウィレムは案内人に促され、目の前の床几に腰を下ろした。アンナとオヨンコアは彼の後ろで地面に片膝をつく。
頭を下げたまま、感覚を研ぎ澄まして周囲をうかがう。ウィレムの前方に左右二列に並んだ人の気配がある。左前からは低い話し声が、右前からは女性のささやきが耳にとどいた。そして、その列に並ぶ人々の奥に、王宮の主人であるサルタクが座しているはずだった。
リュートの音が徐々に小さくなり、いつの間にか鳴り止んでいた。
「頭を上げてあいさつをするように、とのことです」
オヨンコアに耳打ちされ、ウィレムは頭を上げた。見据える先に顔の赤い大男が、寝椅子に深く腰を下ろしている。男は他の者とは明らかに異なる威厳と風格をまとっていた。
「謁見のお許しを頂き、誠に恐悦の至りで御座います。もしお許し頂けるならば、殿下の深きご恩情と、この幸福な巡り合わせを私に与え給う我らが主に、感謝の祈りを捧げたく存じます」
頬杖を突いたサルタクが頷くと、側近が彼の意思を伝え、オヨンコアがその言葉を訳してウィレムに教える。ウィレムが形式的な祈りの言葉を唱えている間、サルタクは厚ぼったい瞼を細めて、ウィレムをじっと見つめていた。
次にサルタクが尋ねたのは、来訪の理由だった。
「私はしがない修道僧で御座います。ただ我らが救世主の教えを広め、少しでも多くの人を苦しみから救おうと、ここまで参りました。我が国、ガリアの王も、深く救世主の教えに帰依され、タルタルの主とも同じ教えを通じて友誼を結びたいと仰せられて、私に大王様宛の親書を一筆、托されました」
あらかじめ考えていた通りの文句を並べる。ガリアを立つ前にギョームと相談して決めたことだった。ギョームはタルタル人との同盟を急ぐ必要ないと考えていたようで、あくまで一修道僧にガリア王が親書を托したという体を貫くよう念を押した。そうすることで、都合の悪い事態に陥っても、手紙を渡されただけでガリア王の真意は量りかねると言えば、その場を切り抜けられるだろうというのが彼の考えだった。
そんな無責任な立場で、最後には同盟の了承を引き出せねばならないのかと思うと、ウィレムは改めて胸が重く沈んだ。
『今すぐ父上に会わせることは出来ない。我が本営にあって、時を待て』
サルタクの答えにウィレムは落胆する。だが同時に、責任の一端を先送り出来たことへの安心感で胸は軽くなった。
長い沈黙が続く。
用件が済んだというのに、サルタクは一向にウィレムを下がらせようとしなかった。そして、ウィレムや彼の後ろに控えるアンナたちをじっと見つめ続けていた。
『ガリアとは、どのような場所なのだ。我に教えよ』
突然、サルタク本人が口を開いた。側近たちに動揺が走り、驚いたオヨンコアは戸惑いがちに彼の言葉をウィレムに伝えた。
「ガリアは気候穏やかにして、深い森林に覆われ、人は素朴なれど、その性、善良にして信心の厚い、そんな地で御座います」
返答に迷いながらも言葉を捻り出す。あまり誇張しても良くないが、卑下が過ぎて侮られるわけにもいかない。
『では、ガリアの民は何を食べて生きているのだ。我に教えよ』
「小麦を育て、パンを焼きます。狩りをして動物の肉も食べますが、食事の前には必ず、主に感謝の祈りを捧げます」
『戦はどうだ。ガリアの戦士は勇猛か』
「ガリアの戦士は戦いのなかで退くことを最も恥じます。他の誰よりも功を上げることを至上の誉れと考えています」
矢継ぎ早に飛んでくる問に、ウィレムは出来得る限り誠実に応えた。
苦労を強いられたのはオヨンコアである。最早、側近を返さず、直接話すサルタクの言葉と、それに返答するウィレムの言葉、二人の声を一人で置き換えて各々に伝えなければならない。少しずつ、閊えや吃り、言い間違いが混じるようになる。徐々に勢いを増す二人のやり取りに、彼女の舌が追い付かなくなっていた。
大きな音を立ててサルタクが寝椅子から立ち上がった。そして、膝を曲げ、腰を落とすと、力強く大地を蹴った。赤い巨体が悠々と空を跨ぐ。誰もが声を失い、その姿を目で追った。
サルタクは、呆気にとられたまま阿呆面を晒すウィレムの前に降り立つと、その分厚い手で彼の両肩を掴んだ。
「ウィレム、ガリアのコト、エトリリアのコト、モット、キカセテクレ」
荒い鼻息とともに紡がれた片言のエトリリア語に、ウィレムは自分の耳を疑った。そして、目の目にある赤ら顔を再度見上げた。声は間違いなくその口から出たものだった。側近の一人が手で顔を覆い、天を仰ぐ。天幕の端に立っていたイージンは、口元を吊り上げて心底楽しそうに笑っていた。