第141話 祓えの儀式
案内された天幕でイージンを待つ間に、二度、灯の油が切れた。寒さを防ぐためか、天幕の壁布は厚く、外の光をほとんど通さない。火が細くなり、天幕のなかが薄暗くなる頃、人がやって来て黙って油を足していった。他にも何度か使いの者が訪ねてきては素性や来訪の目的を尋ねたが、同じ問を何度も繰り返すので、ウィレムはうんざりとした気分になった。
三杯目の油が半分ほど無くなった頃、フェルト製の扉が上がり、二人の男が入ってきた。隙間から見えた外は日が落ちて暗くなっている。
無愛想な男たちは天幕の奥まで歩いて行くと、ウィレムたちの数少ない荷物を掴み上げ、困惑する彼らを置いて、そのまま出て行こうとした。
「ちょっと待ちなさい。それは私たちの荷物よ」
アンナが男の肩を掴んで引き留める。振り返った男は額に深い皺を寄せ、渋い顔で何事か喋った。
「貴方たち、何を喋っているのかさっぱりよ。私の知ってる言葉で話しなさい」
無茶を言うアンナを宥めつつ、オヨンコアが男の言葉を代弁する。
「彼は、自分の後を付いてくるように言っています」
「それだけ? どこへ行くとか、なんで連れていくとかは言ってないの」
「ええ。ただ付いてこいとだけ言っています」
ウィレムとオヨンコアが話している間にも、男たちは扉を持ち上げて外へ出ようとしている。ウィレムは戸惑いながらも、彼らの後を追って天幕を出た。
外は宵闇に包まれていた。ウィレムは思わず肩をすぼめる。頬に当たる乾いた風は突き刺すように冷たかった。
ウィレムたちが待たされていた天幕とサルタクの本営の間には縄が張られている。その縄はサルタクの大天幕を中心とする天幕群の周りをぐるりと囲い、その外側には小さな天幕が点々とあるほかは、家畜が身体を寄せ合って寝ているだけである。馬だけは縄のなかに入れるようで、各々天幕の近くに身を屈め、時折、ぶるると鼻を鳴らしていた。
男たちが進む先に煌々と赤い火が輝いている。彼らの後について光の方へ歩いて行くと、二列に並んだ金属製の台の上で、炎が揺らめいているのが見えた。
列を成す火の前で背骨の曲がった男がぶつぶつと呪文のようなものを唱えている。二人の男は老人に近付くと、運んできたウィレムたちの荷物を彼に見せていた。
「あれはなにをしているのだろう。オヨンコアはわかるかい」
「ワタシも、彼らの儀式にまでは詳しくありません。ちょっと、訊いてきますね」
そう言うと、彼女は老人に歩み寄り、丁寧にに話しかけた。
老人はオヨンコアを鋭い視線を向けると、突然、持っていた杖で、彼女の顔を殴りつけた。オヨンコアが短い悲鳴を上げて地面に倒れる。
「なにをするんですか。止めてください」
オヨンコアに駈け寄ったウィレムは老人を睨む。同じく寄ってきたアンナが目を吊り上げて重剣に手を伸ばすと、男たちが身構えた。
老人はウィレムに向かって何事か叫んでいるが、言葉の意味はわからない。ただ、その表情や仕草から、ウィレムたちを批難していることはわかった。
睨み合いを止めたのは、聞き慣れたまとわりつくような口調だった。
「大人しくしてろって言っただろう。お前、近頃、やたらと喧嘩っ早えよな」
どこからともなく現れたイージンは両者の間に割って入る。
「イージン、これはどういうことなのさ」
「まあ、待てや。説明してやるから……」
話している最中に老人から罵倒されたイージンは、ウィレムとの会話を断ち切って老人に話しかける。彼は二つの言葉を器用に切り替えて、両者の間を調停した。
ひとまずウィレムはオヨンコアを別の場所に運んだ。幸いにも彼女の怪我は大したことはなさそうで、痣も出来ていない。少し遅れてイージンが三人の所へ戻ってきた。
「とんだ迸りだぜ。おいらまでお祓いをやらされることになったじゃねえか」
「これは一体なんなんだい。何故オヨンコアが叩かれなければ、ならないんだよ」
「そりゃ、儀式の最中に勝手に話しかけられちゃ、爺さんも怒るだろうよ」
「儀式だって?」
「そうだ。外から来た奴が穢れを持ち込まねえように、火の精にお前らの身体と持ち物を清めて貰うんだ。これをやらなきゃ、余所者は本営のなかに入れねえ」
「じゃあ、なんでイージンまで。君は余所者じゃないだろう」
「おいらが外で穢れを貰って来ねえわけがねえだろうとよ。とんだ濡れ衣だぜ」
そう言ってイージンは眉間に皺を寄せたが、眉の下の目と口は怪しい笑みを浮かべていた。少なくとも、彼はコンスタンティウムでベリサリオスにナルセスを殺させている。彼が死の穢れを全く受けていないと言うことはないだろう。
二人が話している間に、男たちはウィレムの荷物を掲げて、火の列の間をゆっくりと通り抜け、祓えの儀式を終えていた。老人が乾いた大声でウィレムたちを手招きする。
「良いか、火と火の間を行く時はゆっくり歩けよ。踏み出す足の踵が、残した足の指と重なるくらいの所に着地すんだ。それから、どんだけゆっくりでも脚を止めんな。あと、声を出したり、やたらとうろうろすんのも御法度だ。余計なこと考えねえで、歩くことだけに集中しな」
珍しく注文の多いイージンの耳打ちに従って、ウィレムは炎の前に立った。左右二列の台の上で赤い火がその冠を風に揺らしている。ウィレムは深く息を吸うと、ゆっくりと歩き出した。
深い闇のなかに二列の焔が浮かぶ。列と列の間は人が一人通れる程度しか空いていない。その間をウィレムが静かに歩いて行く。
初めのうちはたいして気負うこともなかった。列自体の長さは馬三頭分ほどしかない。儀式はすぐに終わると思っていた。
瞳の端で炎が躍る。冬も近いというのに、肌はじわりと汗ばんだ。
顔を上げると、火列は遙か先の闇のなかへと続いている。随分と時が過ぎたように感じていたが、ウィレムは未だ列の入口近くに立っていた。
静かに脚を持ち上げゆっくりと降ろす。地面に着いた脚に体重を預け、次の一歩を踏み出していく。いつまで経っても、ほとんど前に進まない。その場で足踏みをしているように感じる。
風が吹き、火の粉が舞った。ウィレムの方に飛んだ火が肌を焼いて紅斑を残す。
舌の上が渇ききっている。苦しさに息を吸おうとしたが、空気は口内に留まって、喉の奥まで入っていかない。
言い知れぬ圧迫感に耐えてウィレムは次の一歩を踏み出した。
全ては錯覚だと自分に言い聞かせる。火に精霊が宿るなどというのは、異教徒の迷信である。この世の全ては、等しく天におわす唯一絶対の神が創造されたもので、奇蹟でもない限り、ただの炎に神聖な力が宿ることはない。内心で何度となく唱えてみても、左右の火から感じる威圧感は消えなかった。それは、祭壇の前に跪き、神に祈りを捧げる時に感じるのと同じものだった。
踏み出す脚の膝に力が入らず、支えを失った上体がぐらつく。左右に傾くウィレムの身体が、風に揺らめく火の動きと重なる。助けに入ろうとしたアンナをイージンとオヨンコアが引き留める。
身体中の力が抜けて倒れそうになりなががらも、ウィレムの脚は自然と前に進む。主の意思と関わりなく、ただ前に進むことだけが、彼のあるべき姿だとでも言うように。
頬に触れる冷たさと濃厚な草の匂いがウィレムの意識を今一度現実に引き戻した。彼は草の上に俯せの姿勢で倒れている。心地良い脱力感と身体の火照りに包まれて、ウィレムは再び瞼を閉じた。ゆっくりと深い眠りに落ちていく彼の後ろで、二列の炎が彼を見守るように優しく光を放っていた。