第140話 二度目の誓い
馬の背に揺られて、ウィレムは三日駆けた。どこまで行っても目に入るのは一面の草原だけである。タルタルの男たちは裸馬を駆って休みなく進む。日が暮れても、馬の背で眠りながら、進もうとすることさえあった。
ウィレムたちが乗る二頭の馬は、アンナとイージンが手綱を握り、その後ろにウィレムとオヨンコアがそれぞれ跨がっている。タルタル人の馬があまりに速く走るので、アンナはそれを面白がって、時に馬の腹をしこたま蹴り、彼らに追い付こうとした。後ろのウィレムは振り落とされないよう、必死に彼女の背に掴まった。何度も打ち付けられた尻は、既に痛みを感じなくなっている。
ウィレムが休息を請うと、タルタル人はつぶらな瞳の上の短い眉を寄せて、あからさまに嫌そうな顔をした。不貞腐れた子どものような表情で、渋々馬を止めると、彼らは決まって代価を求めた。食糧以外に持ち物のないウィレムは、その度に、彼らにパンを分け与えなければならなかった。
走り始めて四日目の昼頃、ウィレムは異様な光景を目の当たりにした。街が住民を伴ってまるごと移動している、最初、彼はそんな錯覚に陥ったほどである。
大量の馬と羊、見たことのない背中に瘤を背負った四つ足の動物、それらの群れを先頭に、数え切れないほどの馬車と騎乗の人からなる一団が、ゆっくりと視界の先を横切っていく。ウィレムは息を呑み、アンナは目を輝かせた。先を行くタルタル人が一団の方を指差して何か言っていた。
サルタクの本営に合流すると、イージンは他の二人と連れ立って、どこかへ行ってしまった。取り残されたウィレムたちは、本営の端にある小さな汚らしい天幕のなかに押し込められ、彼が戻って来るのをただ待つことしか出来なかった。
「いいか、くれぐれも勝手なことをすんじゃねえぞ。ここで大人しくしてろよ」
去り際に彼が残した言葉に従ってはみるものの、落ち着かないウィレムは頻りに辺りを見回した。円形の天幕は、木材を組んだ骨組みの上から厚手の布を被せただけの簡素な造りに見える。天井は低く、ウィレムが立ち上がると梁に頭をぶつけそうになった。扉と敷物にだけフェルトが使われており、歩くと足が埋もれて、どうにもこそばゆい。
立ったり座ったり、天幕の骨組みを触ってみたりと、動き回るウィレムに対して、女性二人は座ったまま動かない。アンナは退屈そうに指先で前髪を弄びながら、時折大きな欠伸をしては慌てて口を手で隠した。オヨンコアはと言えば、ウィレムやアンナを諭すこともなく、目を伏してなにごとか物思いに耽っているようだった。
「イージン、遅いと思わないかい」
「ウィレムさま、それ言うの、もう三回目ですよ」
そんなやり取りの最中、フェルト製の扉が急に持ち上がり、男が一人、天幕のなかに入ってきた。小柄だが、隆々とした体躯の男は、やはり平たい顔をしていた。
低い声で淡々と話し出した男にウィレムは面食らう。やはり、言葉はわからない。身振り手振りで考えを伝えようとしたが、上手くいかなかった。
相手もウィレムが言葉を知らないことを感じ取ったようで、眉間に皺を寄せ、腕を組んで首を左右に傾げる。
困惑した二人が顔を突き合わせてうんうん唸っていると、少し前までぼんやりと天井を眺めていたオヨンコアが、静々と歩み寄ってきた。
「ワタシがお助けしましょうか」
訛りのない見事なエトリリア語が紡がれる。
「そうしてもらえると有り難いけれど、こればかりは難しいと思うよ」
ため息混じりのウィレムに微笑みを返し、オヨンコアはタルタル人の男の方に向き直ると、何事か語りかけた。
彼女が急にタルタルの言葉を話したため、驚いたウィレムの目が点になる。
相手の男も目を丸くしていたが、話が通じる人間の登場を大いに喜び、それまで以上に早口で話しだした。
「彼は、『サルタク様への進物は何を持参したのか』と申しています」
オヨンコアの声に我に返ったウィレムは、自分が何も土産を持ち合わせていないことに気が付き、青ざめた。血の気が退いていく音が、潮騒のように耳の奥で鳴っている気がした。
何も言えずにいるウィレムを見兼ねて、オヨンコアが男に話しかける。彼女の話を聞いた男は、始め、顔を赤くして怒鳴り散らしていたが、彼女がさらに二言三言囁くと、怒りを静め、天幕から出て行った。
事態が呑み込めず、目を瞬かせるウィレムにオヨンコアが状況を説明する。
「彼には、ご主人様は贈り物を持ってきていないと伝えました」
「確かにそうだけど、それで彼は怒ってしまったんじゃないのかい」
「大丈夫です。『ご主人様は神に仕える修道の身の上なので、他人に贈るどころか、自らを楽しませるどんなものも持っておりません。貴方の主人に贈れるものがあるとすれば、それは福音の言葉だけです』と伝えたら、納得してくれましたよ」
「そ、そうなんだ。気を利かせてくれて、ありがとう」
彼女の機転にウィレムは礼を述べる。咄嗟によくそんな口上が思いつくものだと、内心では感心しきりだった。
「ねえ、オヨン。なんでタルタルの言葉が話せるの。私、驚いちゃった」
話が終わるのを待ち構えていたのか、アンナが身を乗り出して二人の間に割って入った。ウィレムも彼女と同じ疑問を抱いていたことを思い出し、一緒になってオヨンコアに尋ねた。
少しの間、耳をぴんと立てて視線を宙に走らせた後、オヨンコアは「別に隠していたわけではないんですよ」と前置きして、自分の身の上について話しはじめた。
タルタロスで生まれ育ったこと。奴隷として多くの人間の元を渡り歩いたこと。そして、ウィレムがタルタロスへ向かうことを知って近付いたことも話した。
聞かされた話しが彼女の全てだとは思わなかったが、嘘はないように思えた。
最後に、
「ワタシを故郷まで送り届けてくれて、本当に有り難う御座います」
と礼を言って、オヨンコアは話しを締めた。
彼女の悪戯ぽい微笑みに、ウィレムは自分が上手く利用されたことに気付いたが、それでも悪い気はしなかった。簡単に憎めないほどには、彼女と同じ時間を過ごしている。彼女の身の上に同情こそすれ、都合よく使われたことを恨む気にはなれなかった。なにより、ウィレムたちとて彼女には世話になっているのだ。
「これで、ワタシもお役御免でしょうか?」
「そんなのイヤ。私、もっとオヨンと一緒にいたいです」
オヨンコアの申し出をアンナがすぐに退ける。当然ウィレムにもその提案を受け入れる気は毛頭無い。
「オヨンコアが良ければ、これからも僕らの身の回りのことをお願いしたいな」
ウィレムの言葉に、オヨンコアは恭しく跪くと、両手を差し出して、臣従の礼を取った。彼女の耳は横に倒れ、尻尾は地面を掃くように、低い位置で振られていた。