第139話 草と土の世界
目の前には見渡す限り遮るもののない大平原が広がる。丈の短い草が大地を覆い尽くし、浅緑を透かして土の茶色が所々に浮かび上がる。
見上げれば、薄い藍染めの上に竈の灰を塗したような色の空は遙かに高く、点々と目に付く白雲が擦れた尾を引きながら、ゆっくりと流れていく。
空と大地が交わる辺りは、巨人の指先が世界の果てを擦ったように、境界を曖昧にぼかしていた。
「ウィレムさま、なんにもありませんよ。どこまでだって行けそうです」
アンナは両腕を広げて、無邪気に駆け回る。走って行っては、親指の爪くらいの大きさになった辺りで折り返し、やはり、走って戻ってくる。少し前から、彼女は同じことを何度も繰り返していた。
ウィレムにも彼女の興奮は少なからず理解できた。胸の鼓動が静かに、それでいて、力強く脈を拍つのは、目的地に着いたという達成感だけに由来するものではなさそうだ。「最初の人」が神によって追放された楽園とは、或いは、眼前の光景と同じものだったのではないのか。そんなことを考えてしまうほど、どこか妙に懐かしい感覚が胸を満たしていた。血のなかに潜む大昔の祖先の記憶がそうさせるのかとも思えた。
「呑気なもんだぜ、あいつら。自分たちの目的を忘れてやしねえだろうな」
イージンは腕組みをして首を傾げる。その隣で、オヨンコアが目尻を綻ばせて、二人を眺めていた。彼女の微笑みはどことなく強張り、唇は固く結ばれている。
「あんたは、はしゃがねえんだな。念願のご帰還だろうに」
イージンが得意の嘲笑を浮かべて、厭味を言う。オヨンコアは彼を一瞥しただけで、一言も言い返さなかった。嫌な顔をするわけでもなく、固い表情のまま視線を逸らし、どこまでも広がる大地をただ漫然と見つめていた。
「ここがどこかわからないかい。タルタル人の住処まで、まだ掛かるのかな」
戻ってきたウィレムの問に対し、イージンは首を左右に振った。
「運良くタルタロスに落ちたとは言え、見ての通り何もねえからな。馬でもいりゃ、適当に駈けさせてみるんだけどよ」
返ってきた言葉に、ウィレムは軽く肩を落とした。
ジョアンの活力を失った「楽園」は、塔の吹き抜けをどこまでも落ち、最後には大地に衝突した。その衝撃で激しく隆起した山の間、辛うじて残った峠道を通って、ウィレムたちは外に出た。ジョアンやシカンデーラが通ったと思われるカイバルの峠を抜けると、土と草だけの世界が広がっていたのである。
目印になるものは何も無い。空を往来する太陽と、夜の月と星だけを頼りに、彼らは進んでいる。二日間歩いても人には出会さなかった。小村すらも見付けられていない。
「どのみち、今は冬営地への移動中だ。大穴近くをうろついてりゃ、あっちから勝手に見付けてくれるだろうよ」
イージンが思いのほか落ち着いているため、ウィレムもそれ以上は尋ねなかった。ただ、食糧の持ち合わせを考えれば、あまり悠長に構えてもいられない。オヨンコアに匂いでタルタル人を探せないか頼んでみたが、開けた所では匂いが散って難しいとのことだった。なにより、大地から立ち昇る青臭い香りが、他の匂いを覆い隠していた。
「ウィレムさま、気を付けて」
突然駆け戻ったアンナの声に、三人は呆気にとられて彼女を見つめる。
「馬の気配です。北の方から馬が来ます」
彼女の言葉を聞くなり、オヨンコアが灰銀の三角耳をぴくりと動かす。ウィレムとイージンは、アンナの示した方角に目を凝らした。活力が消えて以来、ウィレムは鳥瞰の術を使えなくなっていたが、代わりに、少しばかり遠目が利くようになっていた。
アンナの言葉通り、小さな黒い点が視界の果てから土煙を上げて迫っている。その点が徐々に形を成し、馬を駆る人に姿になるまでそれほど時は掛からなかった。
ウィレムは身体を強張らせ、アンナの手が十重の重剣に伸びる。オヨンコアは二人の後ろで身体を縮めた。
「そんなに肩肘張るな。こいつは好都合じゃねえか」
張り詰めた空気を弛緩させたのはイージンの声だった。三人の肩を順々に叩きながら、彼は一行の最前に歩み出ると、土煙を見ながら、したり顔で笑った。その間にも、迫る馬影は姿形までがはっきりと見て取れるようになっていた。相手もウィレムたちに気付いているのだろう。真っ直ぐに向かってくる。
先頭の馬は二頭。その背には、彫りが浅い子どものような顔付きで、ずんぐりとした体躯の男が跨がる。彼らは、イージンと同じく、腰の辺りから縦の切れ込みが入った馬上服に身を包んでいた。
二頭の馬は速度を緩め、ウィレムたちから少し離れた所で脚を止めた。大声を上げれば相手に届くが、動く的に弓で狙いを定めるには難しい程度の距離である。
近くで見るタルタル人の馬はエトリリア馬よりも小柄で、ごつごつとした身体は見栄えも悪い。だが、骨太で見るからに丈夫そうなうえに、穏やかな表情の後ろから、言い知れない迫力を漂わせる。
馬上の男が何か叫んだ。抑揚のない濁った音の連なりは、エトリリア語とは明らかに別の言葉だった。
相手が何かを伝えようとしていることはわかっても、言葉の意味まではわからない。ウィレムが戸惑い、眉を寄せていると、イージンは手を振って男たちに近付いていった。
一瞬、男が背中の弓に手を伸ばす。身構えるウィレムの袖をオヨンコアが引く。
「ここは彼に任せましょう」
「でも、相手は弓を取ろうとしたよ」
「戦うつもりならば、初めからそうしているでしょう。警戒しているだけですよ」
戦う素振りを見せて相手の機嫌を損なう方が宜しくないだろうと、彼女はウィレムを窘めた。言われた通りに構えを解いたウィレムだったが、漠然とした不安は拭い切れず、掌を硬く握り込んだ。
イージンは身振り手振りを交えて男たちと話す。話が弾むという風ではないが、特段険悪な雰囲気にも見えない。ウィレムは固唾を呑んで様子をうかがった。
しばらくして戻ってきたイージンに、ウィレムは辛抱できずに尋ねた。
「話しはどうだった?」
「思った通りだったぜ。奴らが連れてってくれるとよ」
「何処に連れてくって言うのさ」
「サルタクの本営に、だよ」
イージンはそれ以上話そうとはしなかった。
何も知らされないままに、ウィレム一行は男たちが伴っていた備えの馬に乗せられ、草原を駈ける。鞍も鐙もない裸馬の背は乗り心地が悪く、ウィレムの尻はすぐに悲鳴を上げだした。一方、久し振りの馬乗りに頬を上気させたアンナは、馬の背中で満面の笑みを浮かべていた。