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第137話 楽園解放

 胸を刺されたヴァルナラムは、(あお)い床の上に倒れ込んだ。

 彼を見下すダルマナンダの顔に(よこしま)な笑みがあふれ出す。老人は足元に倒れるヴァルナラムを蹴り上げた。血を吐くヴァルナラムは(むせ)びながら老人を見上げた。



「良い様だな。拾ってやった恩を忘れ、儂を切り捨てようとするからだ。そうやって地を()うさまが貴様の本性(ほんせい)にはお似合いよ」



 罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせながら執拗(しつよう)に踏みつける老人は、その瞳に狂気を宿す。異様な雰囲気に困惑し、ウィレムは動けずにいた。



「どうだ、痛いか。それが貴様のやってきたことへの(むく)いよ。神も、人も(あざむ)き、世を乱した者の末路とは、何とも惨めなものだな。ええ」



 つま先が腹の傷を(えぐ)り、ヴァルナラムが重たい声を上げる。その姿には、王の威厳も、武人の威圧もなく、遠目には使い古されたぼろのようにも見えた。


 更に足蹴りを加えようとするダルマナンダをラジャグプタが押し止めた。半顔に浮かぶのは微笑ではなく、苦渋に満ちた|煩悶の相だった。制止されたダルマナンダは物足りな気にしつつ、渋々脚を止めた。

 床に転がるヴァルナラムが閉じかけの(まぶた)の間からラジャグプタを見つめる。言葉はなく、息も絶え絶えだが、その瞳にだけは未だに力が(こも)っていた。



「自分が育てた者に裏切られる気分はどうだ。お前のような人でなしでも、儂の気持ちが少しはわかるだろう」



 ダルマナンダの言葉を相手にせず、ヴァルナラムの視線はラジャグプタだけを真っ直ぐに捉える。彼は申し訳なさそうに、視線を()らせた。



「お許し下さい。ヴァルナラム様より頂いた数々のご恩情、忘れたわけでは御座いません。ですが、私も武人(クシャトリヤ)なれば、親の(あだ)を討たずにはおれないのです」



 (しぼ)り出す声の間に、主人への思いと、許しを請う言葉が挟まる。だが、彼の悲痛な声に返事はない。ヴァルナラムは口元をわずかに(ほころ)ばせていた。



「お前の所業は全て話した。無憂(アショカ)王よりその位を奪う()り、王を(かば)った此奴(こやつ)の親をお前が(ほふ)ったこともな。憐れみか、贖罪(しょくざい)か知らんが、似合わぬことをして足を(すく)われおったわ」



 ダルマナンダの嘲笑に対し、ヴァルナラムは大笑で答えた。苛立つダルマナンダは再び彼の顔を蹴ろうとしたが、容易(たやす)(かわ)され、勢い余って尻餅を突く。



「なにが可笑しい。貴様も儂を侮辱するのか。隷属民(シュードラ)の小僧が」



 (かす)れた声を裏返してダルマナンダが金切り声を上げた。白い顔は赤くなり、瞳は血走る。肩は小刻みに震え、息は荒い。一方のヴァルナラムは()せ我慢か、はたまた、本心か、薄ら笑いを消すことはなかった。その態度が、更にダルマナンダを苛立たせた。



「俺に王位を奪わせたのは、大方先王への当て(こす)りだろう。器が知れるな、(じじい)

「口の減らぬ奴。もう良い。ラジャグプタよ、この簒奪者(さんだつしゃ)を殺せ。さすれば、お前を次の無憂王にしてやろう」



 背を押された半顔の青年がヴァルナラムの前に立つ。握った剣の先は小さく揺れていた。目を合わせようとしないラジャグプタを、ヴァルナラムはやはり笑った。

 目を閉じたラジャグプタが剣を振り上げる。剣先は彼の頭上で静止し、そして、そのまま動かなくなった。



「どうした、早く殺すのだ」

「そうだ。お前が真に武人なら、その刃、振り下ろし、俺を殺して見せろ」



 歯軋(はぎし)りの音がした。押されるように、或いは、引っ張られるように、ラジャグプタの腕が落ちる。走る刃は空を切り、満身創痍(まんしんそうい)のヴァルナラムに迫った。


 あまりに軽く、力のない音色。金属と金属が打ち合う音が響く。

 ラジャグプタの剣をアンナが受け止めていた。



「何のつもりですか。貴方を生かしたのはこんなことのためじゃありませんよ」



 彼は一瞬目を押し開き、そして、目尻を下げた。隠しきれない安堵の表情が、彼の本音を物語る。



「アンナ」

「遅くなりました。ご無事でなによりです」



 振り返るアンナは満面の笑みを浮かべる。(うれ)いのない本来の笑みが戻っていた。



「それで、私はどうすればいいですか?」



 どんな事でもやってのけると、彼女の顔に書いてある。

 少し考えて、「その人たちを止めて」と伝えると、彼女は力強くうなずいた。


 アンナに気圧されて、ダルマナンダが後退(あとずさ)る。ラジャグプタは観念したように剣を捨てた。



「おい、ウィレム。生きってか」



 声のした方を見ると、部屋の入口にイージンとオヨンコアの姿があった。二人が無事なことを知り、ウィレムは胸を撫で下ろした。どうやら、アンナが彼らを救ったようである。


 ウィレムが二人に歩み寄ろうとした時、大地が揺れた。立っているのも辛いほどの大きな衝撃が一つ、その後一拍置いてから、小さな縦揺れが続く。それは揺れるというよりも、床が抜けて、階下に落ちるような感覚だった。



「この揺れはなんじゃ、何が起きている」

「落ちるの。大地が落ちてるのよ」



 狼狽(うろた)える声にシャクティが答える。彼女はばらばらになったジョアンの欠片を抱いて、壁にもたれ掛かっていた。表情はなく、ぼんやりと宙を見上げて、ぽつり、ぽつり、と口を開く。



「こんなに大きなものが、簡単に浮くと思う。楽園の全部はジョアンの活力(テージャス)で動いてたの。ジョアンがいなくなったんだもの、楽園は壊れちゃったのよ」



 部屋の壁にひびが入り、崩れた天井が次々に落ちる。

 アンナがウィレムに駆け寄ろうとしたが、手遅れだった。二人を分かつように巨大な碧玉(へきぎょく)が床に落ちる。立ち上がり、腕を伸ばしたウィレムの視界からアンナの姿が消えた。



「楽園は、落ちるの。ジョアンとシャクティの楽園は終わったの」



 シャクティの姿も石の向こうに見えなくなった。ウィレムの目の前には手負いの王と老臣だけが残っていた。

 這いつくばり、地面を掻いて逃げようとする老人の姿は哀れだった。



「儂は、こんな所では死ねん。儂を認める、儂のための世界がそこにあるのだ」



 叫び声は虚しく掻き消えた。さもしい老人の足首にヴァルナラムの手がかかる。



「やめろ。儂を道連れにする気か。儂は、儂は生きるのだ」



 何度足蹴にされようと、ヴァルナラムは手を放さない。ダルマナンダの顔に恐れと焦りが(つの)る。のべつ幕無(まくな)しに当たり散らす老人の頭上にも、敢え無く青い墓石が降る。惨めな悲鳴を残して、ダルマナンダは押し潰された。



「遂に俺とお前だけになったな。身体は動くか」

「貴方よりは軽傷です。腹に穴を二つも明けて、なんで平気でいられるのですか」



 二人の声は少し前まで闘っていた者同士とは思えないほどに落ち着いていた。

 ヴァルナラムは壁伝(かべづた)いに身体を起こす。ウィレムは壁に背をあずけた。



「剣を持つものが二人、誰の邪魔も入らん。そろそろ決着を着けるとするか」

「本気ですか」

「当り前なことを()くな。お前は俺が気に入らんのだろう。俺は命ある限り、俺の正義のもと、逆らう者を殺すぞ。止めようというなら、お前がここで俺を殺せ」



 ヴァルナラムは口元を吊り上げる。死んでいても不思議でない傷を負いながら、その口調は自信に満ちていた。



「貴方はダルマナンダ殿に(だま)されていたのですよ。今更、あの人を言う、あるべき世界なんてものにこだわる必要はないのです。貴方は利用されていたんですから」

見縊(みくび)るなよ。爺の言葉など、きっかけに過ぎん。俺は、両のまなこで世界を眺め、心で感じ、魂の望むままに生きたのだ。これは紛れもなく、俺自身の意思よ」



 死を前にして、自分の思うままに生きたと言い切れる、その傲慢さに少なからず心惹かれるものがある。


 ウィレムは剣を構える。ヴァルナラムは刃を引き()って歩き出す。

 打ち合った。速い。そして、重い。受けた剣が弾かれる。

 ウィレムの想像以上にヴァルナラムは強い。とても、瀕死(ひんし)の重傷を負っているとは思えなかった。


 壁から碧玉が()がれ落ちた。揺れは未だ続いている。

 剣筋を目で追えても、避けることは難しい。受け止めると背筋まで痺れが走る。

 壁が剥がれる音が聞こえる。

 ()ぎ払いを受けると、衝撃で膝が折れそうになった。

 ()かさず、次の一撃が襲う。巧みな連撃は尋常の技ではない。


 また、ひび割れが剥がれ落ちる。

 辛うじて受けた一撃の重さに、ウィレムは足の指で地を(かん)んだ。

 確かに重い。だが、耐えることは出来る。ウィレムはより重い剣を知っていた。マクシミリアンの一撃はずっと重かった。

 ヴァルナラムは次の攻めのために体勢を調えている。巧みな技だが動きはわかる。ラジャグプタの技は、より巧みで難解だった。


 ぱらぱらと表面を覆っていたものが剥がれ落ち、隠れていた本質が現れる。

 ヴァルナラムは「金」だと思っていた。“力”を持ち合わせた人間だと思っていた。しかし、剣を打ち合わせる毎に、彼を覆う鍍金(めっき)が剥がれ落ちる。


 ヴァルナラムの剣が走る。それまでで、最も速い。

 だが、ウィレムは幼き頃より、神速で(ひらめ)く刃を見続けてきたのだ。脳裏に焼き付いたアンナの太刀筋とは比べものにならない。


 ウィレムは確信する。ヴァルナラムは「石」であると。必死に表面に金色を塗りたくり、金であろうとし続けていたのだと。

 だが、「金」に魅入られているのはウィレムとて同じである。決して届かないとわかっていても、諦めきれずに、自分の「石」を磨き続けてきたのだ。同じ「石」ならば、意地でも負けたくはない。


 考えるより先に身体が動く。前傾し、頭を沈めると、頭上を殺気が通り抜けた。

 ウィレムは大きく踏み込んだ。返す刀でヴァルナラムも切り返す。

 二人の剣が交差する。長いが終わりを告げた。

 そして、楽園はどこまでも落ちていく。

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