第136話 絡み合う目論み
しばらく揺れた大地はシャクティの慟哭に呼応するように退潮した。シャクティは背中を丸めてうずくまり、声を殺してむせび泣いている。
剣を拾い上げたヴァルナラムがまだ微かに残る縦揺れに脚を取られながら、よたよたと彼女の元へ歩いていく。彼の顔に浮く憤怒の相に、ウィレムはその意図を感じ取り、慌てて二人に駆け寄った。
ヴァルナラムが剣を振り上げた。踏ん張りが利かないのか、剣の重さに負けて上体がぐらつく。
「貴様もすぐにジョアンとやらの元に送ってやる」
両手で剣を握り、辛うじて構えを取ったヴァルナラムに、ウィレムは思い切り突進した。彼も足取りはおぼつかない。縺れるように二人はその場に倒れ込む。
「ウィレム、お前は自分を殺そうとした者まで助ける気か」
「言ったはずです。無益な殺戮はさせないと。シャクティの気持ちは僕だって痛いほどわかるんです。同じ立場なら、僕だって彼女と同じことをしたかもしれない」
上下を入れ替えながら、二人は床の上を転がった。ヴァルナラムの胸に埋めたウィレムの顔に、粘り気のある血糊が張り付く。腹の傷は未だに治り切っていないようだった。お互いに相手を押さえつけるだけの余力はなく、息も絶え絶えに気力だけで四肢を動かす。
「奴の気持ちがわかるというなら、死なせてやるのが正義とは思わんか」
「それは彼女が決めることです。貴方が彼女の命を奪って良い理由にはならない」
「あれは人の世にいて良いものではない。人を思って五百年以上も生き長らえるなど、神か化物の類だぞ。そんな奴に人の世を跋扈させるわけにはいかん。そんな人外は人の世には無用だ。人の世は人の手で動かしていくのだ」
二人を突き動かすのは意地だった。互いに恨みがあるわけではない。ただ、どこまで行っても考えが相容れないのだ。妥協点を探る段階が疾うの昔に過ぎていることを、二人は十分に承知していた。
上になったヴァルナラムがウィレムの顔殴りつける。繰り返し打ち付ける拳は、何度も狙いを外して地面を叩いた。
下になったウィレムはヴァルナラムの腹の傷を蹴り上げ、彼が怯んだ隙に額を顔に叩き付けた。折れた前歯が刺さり、眉間から垂れた血で視界は赤く染まる。
顔も拳も腫れ上がり、不格好な団子のように膨れていた。それでも二人は闘うことを止めなかった。
絡み合う二人の耳に人の足音が届いたのは、殴り疲れて手が止まった頃だった。ウィレムは渾身の力でヴァルナラムを払い除ける。ヴァルナラムも敢えて追おうとはしない。二人は互いに距離を置き、部屋の入り口を注視した。
足音は二つ。一つは脚を摺るような歩き方で、もう一つは短い歩幅で忙しなく歩く。既に部屋のすぐ外まで来ていることが、音の反響でわかった。
一度入口の前で立ち止まった足音は、部屋のなかをうかがいながら慎重に姿を現した。ウィレムは顔を曇らせ、ヴァルナラムはほくそ笑む。入ってきたのは、戦装束を血で染めたラジャグプタと、杖を突いて歩くダルマナンダだった。
「アンナはどうしたんですか」
ウィレムはたまらずラジャグプタを問い質す。アンナの身を案じ、自然と口調も強くなる。だが、ラジャグプタはなにも答えない。黙ったまま眉頭を寄せ、少し困ったような微笑を投げ掛けるだけだった。
「ラジャグプタ、ウィレムの奴を抑えておけ。俺の邪魔が出来ないようにな」
ヴァルナラムの命令にも、彼は返事をしない。ただ、ゆっくりと主人の元に歩み寄る。従僕の様子がおかしなことにヴァルナラムも気が付いた。彼は二度、三度、同じ命令を繰り返したが、その声にも返事はなかった。
通りすがりにラジャグプタの口が小さく動くのをウィレムは見た。それは誰にも聞こえない細やかな声だった。あるいは、声に出てすらいないのかもしれない。だが、ウィレムの目には確かに彼の口が「お許し下さい」と動いたように見えた。
ラジャグプタがヴァルナラムの前に立つ。困惑し、眉をひそめるヴァルナラムの胸にラジャグプタは自身の身を投げ出した。反射的に彼を受け止めたヴァルナラムの顔が、見る間に歪む。そのまま仰向けに倒れ込んだ。
ヴァルナラムの胸に短刀が突き立てられていた。
あまりに突然の出来事にウィレムは混乱して動けない。目の前で何が起きたのか、瞳はその光景を確かに捉えていても、頭がそれを正しく判断しない。
ラジャグプタの口から頻りに許しを請う言葉が流れ落ちる。その隣で、ダルマナンダが嗄れた声で高らかに笑っていた。