第135話 解放
「ごめん、僕はシャクティのお願いには応えられない」
ウィレムの口が拒絶の言葉を紡ぐ。ジョアンに変わって「楽園」の柱となることを彼は明確に拒んだ。シャクティの目尻が力なく下がり、口は半開きになる。彼女は呆然と彼を見つめた。
「シャクティの聞き間違いかな。もう一度聞かせて。お願いを聞いてくれるよね」
「何度尋ねられても、答は変わらないよ。君との約束は守れない。本当にごめん」
シャクティは目を見開いた。すらりと通った鼻筋の下で二つの鼻孔が広がる。
「なんで、なんでそんな意地悪言うの。お願い聞いてくれるって言ったじゃない」
「そのことは謝るよ。でも、僕には他にやることがあるんだ」
シャクティが何度尋ねようとも、ウィレムの答は同じだった。むしろ、言葉にすることで彼の意思はより確かなものになった。
シャクティが肩を震わせる。彼女の手からジョアンの髑髏が滑り落ち、床を転がって乾いた音を立てた。
「そんなのダメ。シャクティはずーっと待ってたの。やっとウィレムを見付けたんだもん。絶対に逃さないから」
赤く腫れた瞳でシャクティがウィレムを睨む。唇の間から剥き出しになった牙は鋭さを増し、褐色の肌はどす黒く染まっていく。少女の面影は薄まり、鬼の形相へと変わった。シャクティの豹変にウィレムは驚き、思わず二、三歩退いた。
ウィレムの首にシャクティの両手が掛かる。そのまま彼女は浮き上がり、ウィレムを宙吊りにした。男一人を持ち上げる腕力は少女のそれではない。ゆっくりと、だが、確実に、黒くずんだ彼女の指が彼の首を締め上げていく。
踠こうとしたが、やはり身体は言うことを聞かない。見えない縄で縛り上げられているような感覚だった。身体のなかには猛る活力が未だ収まらずに燃えている。その熱を見えない戒めに何度もぶつけた。歯をくいしばり、手脚を力一杯に振りまわす。だが、意思と熱に反して、身体はびくともしない。腹の底から一声し、力を解き放とうとするが、それ以上の力で押し潰される。
額が締め付けられ、時折意識がぼやける。それでも、持てる力を振り絞って抵抗を続けた。
シャクティの黒い指がウィレムの首に食い込んで赤い跡が残る。既に彼の顔は赤黒く変色し、瞼も半分落ちかけている。懸命な抵抗も徒労に終わった。彼女がさらに強く喉骨を握ると、ウィレムの口からくぐもった吐息が漏れ出した。
意識を途切れる直前、ウィレムを吊り上げていた力が不意に失せ、彼は床の上に背中から落ちた。衝撃で胸に残った空気が外に押し出され、苦しさで咳が止まらない。視界はぼやけ、半ば夢に片足を突っ込んだ心地でウィレムは地面を転がった。
頭上からシャクティの叫び声が降り注ぐ。
「ちょっと、それ、何よ。止めてよ。それが誰の骨かわかってるの。」
彼女は頭を抱えて宙をふらふらと飛び回り、天井に当たって地に落ちた。立ち上がってからも、地団駄を踏み、壁を殴りつけ、錯乱したように暴れ回った。
ウィレムには何が起きたのかわからない。焦点の定まらない瞳の先で、彼女がアンナの感覚を共有していることを彼は知る由もなかった。
暴れ回るシャクティが膝を折って座り込んだ。いつ痛めたのか、彼女の両脚から血が流れる。傷口は一向に塞がらず、流血は止まらない。それでも、両腕を振り回し、彼女は咆哮を上げ続ける。
「それはジョアンなの。ジョアンで人を傷付けるのは止めて。ジョアンが悲しむ」
ウィレムが上体を起こしたことにも、シャクティは気が付かない。壁を伝って立ち上がろうとすると、軽い立ち眩みで身体がよろめく。膝を踏ん張り、震える脚で地面を噛んだ。理由はわからないが、彼女の気が他に逸れている。身体の自由も戻っていた。その場を逃れるまたとない好機だった。
気配を静め、物音を立てないようにゆっくりと歩く。常に視界の端にはシャクティを入れつつ、壁に沿って部屋の入口へ向かった。碧玉の壁は所々脆くなっており、うっかり触れるとこぼれた欠片が地に落ちる。細心の注意を払って進むため、足取りはどうしても遅くなった。
部屋の入口が近付き、ウィレムは少しばかり安堵する。余裕が出来ると同時に、ある違和感に襲われた。何かを忘れているように感じたのだ。
脚を一旦止めて部屋のなかに目を向ける。しゃがみ込むシャクティと変わらずにそびえる中央の高台。元より他にものは無かった。
再度視線を左右に振り、はたと気が付く。ジョアンの髑髏が見付からない。シャクティの腕からこぼれ落ち、床に転がっているはずのものが見当たらなかった。
「黒い女よ、今、貴様の望みを叶えてやるぞ」
突然の大声に驚いて目を向けると、声のした方にヴァルナラムの姿があった。彼の手にはジョアンの髑髏が鷲掴みにされていた。
「我らの神が余所者の活力に縛られていようとはな。今、解き放ってくれよう」
ヴァルナラムの腕に血管が浮く。木の軋むような音が彼の手のなかで鳴った。
シャクティに声はない。ただ顔を歪め、腕を伸ばす。虚しく宙を掻く彼女の手の先で、ヴァルナラムが拳を握り締めた。握った指の間から白い欠片が舞い落ちる。
しばしの静寂。頭蓋の欠片が碧玉の床を跳ねる音だけが聞こえる。
シャクティは足下まで飛んできた欠片を拾い、その欠片をじっと見た。そして、別の欠片を拾うと二つを手でくっつけようとする。しかし、割れ目が噛み合わず、何度やっても上手く付かない。仕舞いには、彼女の手のなかで二つの欠片が割れて砕けた。
激しい感情を孕んだ獣性が響き渡り、彼女の声に応えるように大地が鳴動する。激しく揺れる奥の院に、慟哭と地鳴り、そして、ヴァルナラムの高笑いが木霊した。