第133話 微笑みの女神
「ウィレムが無事で本当に良かった」
場にそぐわぬシャクティの朗らかな笑みに、ウィレムは身体を震わせた。ウィレムに近寄る彼女の脚が床に倒れるヴァルナラムを踏み付ける。まるで彼のことが目に入っていないかのような振る舞いだが、彼に刃を突き立てたのは、間違いなく彼女だった。
「大丈夫。そんなに怯えないで。外の怖い人たちはアンナが殺してくれるから」
「アンナに、彼女に何かしたの」
声が上擦ったのはヴァルナラムに斬られた傷の所為ではない。シャクティから漂う異様な雰囲気に、全身の毛が逆立ち、身体は固くなっていた。
「気持ちが楽になるようにしてあげただけ。余計なことは考えなくて良いように」
「彼女に人殺しをさせる気なのかい」
「アンナはウィレムを守りたいって言ってた。それなら、他のことなんて忘れてしまえば良いじゃない。そうなるようにお呪いを掛けてあげたのよ」
シャクティはウィレムの隣にゆっくりとしゃがみ込み、彼の身体に手を這わせて、優しく撫で上げる。小さな掌から彼女の生温かい熱が肌越しに伝わってきた。
「無憂城で、シャクティのお願い聞いてくれるって約束したこと、覚えてる?」
耳にかかる彼女の息がこそばゆい。約束のことは覚えていたが、それが途轍もない間違いのように思えて、ウィレムは背筋が寒くなった。冷たい汗が一筋、背中を伝って腰に落ちる。下腹の奥で何かが蠢くような気配がした。
「きっと、ウィレムにしか出来ないことよ。ずーっと、見てたからわかるの」
「ずっと、見てた?」
岩窟のなかは温かいというのに、ウィレムは寒気が止まらない。上下の歯が打ち合って、かたかたと音を立てている。彼女は常にウィレムたちと共にいたわけではない。彼女の言う「ずーっと」の意味をウィレムは計り兼ねていた。
「ずーっとはずーっとよ。村の儀式でウィレムが暴れた時も、ヒマーラヤを登っていた時も、無憂城や迦陵伽の時もみーんな近くで見てたわ」
どくり。
大きな鼓動が一つ拍つ。それ以上、彼女の言葉を聞いてはならない、わかっていても、震える唇が彼の疑問を口走る。
「君はその時、僕らと一緒にいなかったじゃないか」
「あら、遠くのことを知るなんて、難しいことじゃないでしょ。ウィレムだって、シャーキヤおじさまから鳥瞰の術を習ったんじゃない。シャクティはね、楽園中の女の人が見てるもの、感じてるものは、どれだけ離れててもわかるの。みんな、シャクティの子どもみたいなものだもの」
「そんな馬鹿な」そう言いかけて、言葉を呑み込んだ。その地で散々と不思議な物事に出会したのだ。にわかに信じられないことが起きる場所だと身に染みていたはずだった。
「今もね、アンナのこと見てるんだ。あの子すごいよ。こんなに強いのに、何で戦おうとしなかったのかわからない」
シャクティは興奮気味に手を打って、飛び跳ねる。彼女の底無しの瞳が何を見ているのか、ウィレムには全くわからない。
「ねえ、そろそろシャクティのお願い、聞いてくれる。そのために、ウィレムにはここまで来て貰ったんだもん。鬼神や天女を使って引き留めた甲斐があったわ」
彼女に引き留められた記憶はなかった。だが、ウィレムがタルタロスを目指そうとする度に、彼の気持ちを萎えさせる不思議な出来事が起きた。モハンムーラの庵へ向かう道中や、ヒマーラヤの山中で、他にも夢現の狭間で彼を引き留めようとした全てが、彼女の仕業だったということだ。
不意にシャクティがウィレムに抱きつく。背中に回された腕が彼の感触を確かめるように右へ左へと這い回る。振り解こうとしたが身体は自由に動かない。
シャクティの顔が近い。柔らかなものが唇に触れた。そのまま彼女の細い舌が歯の間を抉じ開け、口のなかへと入ってきた。
彼女の口から舌を伝って液体が流れ込む。拒むことも出来ずに飲み込むと、刺激が喉の奥から鼻に抜けた。覚えのある味だった。原人解体の儀式の前にモハンムーラに飲まされた神酒と同じ、酸味と甘味が入り混じった感覚が口内に広がる。
「抱き心地や唾の味までそっくりね。ウィレムなら、きっと上手くいくわ」
唇を離すと、シャクティはふわりと浮いて、部屋の中央にある高台の上に降り立った。壁や床と同じ碧玉の台である。見上げるウィレムには、台の上に何があるのかまではわからない。
「ウィレムには、ジョアンの替わりをやって欲しいの。彼、もう随分長くここでお役目を果たしてるのよ」
シャクティが何かを抱いて高台の縁に腰を下ろした。その位置ならば、ウィレムにも彼女の手のなかにあるものがわかる。
「紹介するね。彼がジョアン。シャクティの大事な大事な人」
彼女は胸に抱いていた髑髏を持ち上げ、うっとりとした表情で頬擦りした。