第132話 迷走
ヴァルナラムが振るう刃をウィレムは懸命に受け続けた。鋭い太刀筋と抗し難い圧力を前に、彼の脚は徐々に後ろへ下がっていく。
息吐く暇もない。止め処ない連撃にさらされ、ウィレムの顔が苦悶に歪む。こめかみを伝う汗はべたついていた。
「どうしたウィレム。腰が引けているぞ」
ヴァルナラム渾身の打ち下ろしを受けて剣は震え、手には痺れが残った。彼の剣には嘘がない。予想した軌道を剣先が正確になぞる。だが、わかっていても容易に躱すことは出来ない。鳥瞰とは相性の悪い相手だった。
二人の剣が交わる度に金属音が尾を引いて玉壁に弾けた。その音に引き摺られるように、二人は岩窟の奥へと潜っていった。
「威勢が良いのは初めだけか。俺のやり方が気に入らないのだろう」
どれだけ挑発的な言葉を浴びせられても、ウィレムは守りの姿勢を貫いた。致命傷でなければ傷はすぐに治ってしまう。互いに条件は同じなのだから、先に隙を見せた方が負けに近付くことは明らかだった。
待つ時間は果てしなく長い。ヴァルナラムが隙をつくるまで、ひたすら耐えなければならない。しかも、それまでに一つの間違いも許されないのだ。ふと、終わりなど来ないのではないかと思うこともあった。そんな絶望を振り払い、ウィレムは目の前の刃に気持ちを集中する。
二人の刃に映る光の色は壁の玉に応じて美しく移り変わった。赤から白、白から青。世界が明滅し、ぶつかり合う二人を鮮やかに彩る。いつしか二人を包む光は深い碧を示していた。
腹を蹴られたウィレムが碧玉の床を転がる。追撃を恐れ、ウィレムはすぐ頭を上げたが、来るはずの一撃が彼を襲うことはなかった。
「素晴らしい。この世のものとは思えんな」
奥の院に踏み入り、一面碧の部屋を目の当たりにして、ヴァルナラムの口からため息が漏れた。
「その美しいスメールを、貴方が台無しにしたのです」
「俺とて、神からの賜り物を血で穢すのは本意ではない。だが、邪魔者を黙って見逃すほどお人好しでもないんでな。役割を全うしない者など、害悪でしかない」
「ここの人たちは違う。貴方が殺した人の多くは邪な心など持っていなかった」
「俺の邪魔をするなら同じことよ。奴らが向き合うべきは人の世ではなく、神だ」
幾ら言葉を交わしても、ヴァルナラムの意思が揺らぐことはない。それが思い上がりから来るものならば、自信を挫けば止められる。だが、信念ならば留めることは容易ではない。殊に、彼のような強情な者ならば。
「僕は意味も無く人が死ぬところを見たくありません」
「意味ならある。奴らが去ればこの世界はあるべき姿に近付く」
「例えそうだとしても、貴方のやり方は間違っている」
「武人が剣を取って何がおかしい。お前も俺が気に入らないのなら、力尽くで止めて見せろ」
言葉のやり取りは敢え無く終わった。再び剣と剣が交わる。
一度は緩んだ身体に、熱と緊張が戻ってきた。
突きからの薙ぎ。打ち下ろしからの強引な押し込み。容赦のない攻めが続く。
瞳の奥が重い。こめかみが締め付けられ、鳥瞰を保てない。
一瞬、目の前が暗転した。意識を呼び戻したのは首への激しい痛みだった。
ウィレムの口から声にならない叫びが上がる。喉の奥が燃えるように痛い。苦しさに息を吸おうにも、口に入った空気は胸まで落ちず、どこかへ消えてしまう。
「首の皮一枚で生き残るとはやるではないか。それとも、お前の運が良いのか」
遠くから聞こえるヴァルナラムの声。霞む視界の中で碧い床に赤が飛び散り、不気味な混色をつくっていた。血はウィレムの首から流れ続けている。
手脚を振ってその場を離れようとしたが、思い通りに動かない。酒を飲み過ぎた後のように、意識と身体が切り離されている。
「お前との戯れはそれなりに楽しかったぞ。最後まで抗ったことは褒めてやろう」
首の痛みは消えかけていた。息苦しさも多少は楽になっている。だが、意識だけが靄のなかにあって未だに判然としない。
生きなければならない。その気持ちだけがはっきりとしていた。ルイに任された仕事が残っている。イージンとの約束もある。何より、ウィレムが死ねば、アンナが泣く。それだけは絶対に嫌だった。
身悶えするウィレムの腹をヴァルナラムが踏む。重さを乗せて動きを封じ、逃れられぬよう床に貼り付ける。ウィレムの肋骨が乾いた音を立てて軋んだ。
ぼやけた視界の中にヴァルナラムの刃が閃く。振り下ろされた剣が徐々に大きさを増していく。避けようにも、身体は自由に動かない。
目の焦点が剣先に合った。首のすぐ横で剣は止まっていた。
見上げるとヴァルナラムの脇腹から鉄の刃が突き出ていた。
彼は蹌踉めき、傷口を押さえて倒れ込む。刃は背中から入り、腹を貫いていた。
「いざとなったら、助けてあげるって言ったでしょ」
ヴァルナラムの後ろから、愛らしく微笑むシャクティが姿を現した。その笑みと彼女の手を濡らす返り血がどこまでも噛み合わず、ウィレムは何度も瞬きをした。