第131話 オヨンコア救出
スメール山の岩窟にはむせ返る血の臭いが満ちていた。美しい金細工の壁は見る影もなく破壊され、人を呼んでも返事はない。天井から垂れた赤い雫がウィレムの肩に落ちて服に染みた。
至る所に人が倒れ伏し、重なり合って山になっている。
ヴァルナラムの兵は奇妙な死に方をしている者が多かった。自ら喉を裂いた者、同士討ちで死んだ者、壁に頭を打ち付けて立ったまま動かない者もいた。バラモンの威光に当てられて、正気を失ったのだろう。
一方、バラモンの多くは兵士の群れのなかで押し潰されるように果てていた。
辺りを見回しても動くものは何もない。目を背けながら屍の山を掻き分けてみたが、オヨンコアとシャクティの姿はどこにも見当たらなかった。呼ぶ声が虚しく反響し、ウィレムの元に戻ってくるだけである。
心底から首をもたげる不安を幾度となく抑え込み、ウィレムは岩窟の奥へと進む。そんな時、イージンに呼ばれて駆けつけると、まだ辛うじて息のある老バラモンが、彼の足下に倒れていた。
その姿から威光を感じられず、ただみすぼらしいだけの老躯がそこにあった。
膝を突き、老人の骨張った手を握る。彼は歯の疏らな口を弱々しく動かすが、吐く息の音しか聞こえない。頭を寄せ、口元に耳を近付けると、途切れ途切れに声が聞こえた。
「シャクティ様……、お守りくださ……。奥の院……、どうか、――」
老人の唇がそれ以上動くことはなかった。ウィレムは彼の顔に手を被せ、そっと瞼を閉じてやった。
「こりゃ、負け戦で間違いねえな。これからどうするよ」
イージンの声にも張りがない。目の下には隈が色濃く、疲れが顔に表れている。
「僕は奥の院へ行ってみる。生きている人がいるかも知れない」
「敵の生き残りもいるかもな」
「それこそ急がなくちゃ。オヨンコアだって、まだ見つけていないんだ」
イージンは顔を曇らせた。彼が逃げる算段をしたがっていることはウィレムにもわかった。だが、ここまで来て一人逃げることなど出来るはずがない。外に残してきたアンナのことを思えば、尚更である。
ウィレムは黙って歩き始める。イージンは重い足取りで彼の後を付いていった。
道幅が狭まり、辺りは暗くなる。道端の死体も数が減っていた。幸いなことに、そのなかにオヨンコアとシャクティの姿はなかった。
しばらく進むと人の話し声が玉の壁を伝って聞こえてきた。気配を消し、足音を忍ばせながら慎重に辺りをうかがう。バラモンの生き残りならば幸いだが、敵に見つかれば戦わざるを得ない。
息をひそめて壁の陰から身を乗り出すと、前方に人影が見えた。
思わずウィレムは声を上げそうになる。透かさずその口をイージンの細い手が塞いだ。そこにいたのはヴァルナラムと護衛の兵。そして、後ろ手に縛られ、彼らの道案内をするオヨンコアの姿だった。
「最悪だ。あの女、取っ捕まりやがった」
イージンが小声で悪態を吐く。
「どうやって助けようか」
「助けることは決まりなのかよ」
そう言いながらも、彼の目はヴァルナラムたちから離れない。細い目が忙しなく周囲をうかがい、必要な情報を集めている。
「道が狭いし、あまり難しいことは出来ないね」
「だからって、正面突破なんてのは無しだ。数を考えろよ」
ヴァルナラムの兵は四、五人はいそうに見えた。まともに戦えば勝ち目は薄い。
「イージンなら、気付かれずにオヨンコアに近付けるんじゃない」
「出来たとして、その後どうすんだ。逃げ場はねえぞ」
「僕が囮になるよ。それなら、どう?」
イージンが目を見開く。悪相の三白眼がウィレムを鋭く睨みつけた。だが、ウィレムも退かない。彼の視線を正面から受け止める。
イージンが尖らせた唇からため息を吐いた。
「近頃のお前は本当に可愛げがねえな」
「大丈夫。僕だって死にたいわけじゃない。アンナが悲しむからね」
それ以上のやり取りは必要なかった。
イージンの気配が闇に溶ける。
ウィレムは深呼吸を一つすると、壁の陰から飛び出した。
最初にウィレムに気付いたのはヴァルナラムだった。血糊の付いたままの顔に嬉々とした表情を浮かべ、両腕を広げて彼を迎える。
「ウィレム、随分と久しいではないか。やはり、お前もここに居たんだな」
「ヴァルナラム様、どうかオヨンコアを離して頂けませんか」
長年の友に再開したような調子のヴァルナラムに対し、ウィレムの声は強張っていた。表情も固く、身体は小さく縮ませている。
「あいさつもなしとは悲しいな。俺とお前の仲ではないか」
「僕と貴方は敵同士、悠長にあいさつを交わす仲ではないでしょう」
話しながら、周囲の状況を確かめる。廊下の幅は三人が横並びになれる程度で、身を隠す場所は見当たらない。ヴァルナラム以外に五人の護衛がおり、そのうち一人が常にオヨンコアの隣に着いている。他の者は剣を構えてウィレムに警戒の目を向けていた。皆、無憂城で見知った顔だった。
イージンのいる場所は全く掴めない。彼の存在を知っているウィレムをしても見つけられないのだから、相手が彼に気付くことはないだろう。
「オヨンコアさえ返して頂ければ、貴方の邪魔をするつもりはありません」
嘘を吐いた。
岩窟にバラモンの生き残りがいるならば、ヴァルナラムに彼らを殺させるつもりは毛頭なかった。戦ってでも彼の虐殺を止める覚悟なら、疾うに出来ている。
「俺が言われたままに易々と返す人間だと思うのか。欲しければ、力尽くで奪うんだな。お前が口先だけの偽物でないところを見せてみろ。さあ、さあ、さあ」
命令もなしに、三人の兵が距離を詰める。隆々とした体躯に鋭い剣、目には精気と狂気を帯びた本物の戦士である。油断もなければ、恐れもない。
ウィレムから彼らに近付くことはしない。敵の気を引き、分断するのが役割である。せめて後一人はオヨンコアから引き離したかった。
二人が並んで突っ込んできた。後方に跳んでも逃げ切れそうにない。
壁の方へ逃れる。
通路は左右に狭いため、横の軌道で斬られることはない。次の攻めも限られる。
突きをいなし、斬りつける剣を倒れ込みながら躱す。そのまま地を転がり、二人の下を通り抜けた。
上手くいった。だが、後方には三人目の兵士が控えていた。
顔への蹴り。鼻先を掠めた。
だが、ウィレムは彼の動きを前もって確認していた。
鳥瞰の術に死角はない。大人数を相手取る時ほど都合が良い。
相手の軸足を刈る。倒れた相手に追い打ちはしなかった。
立ち上がって、距離を取った。
一人、追ってきた。残りの二人は出遅れている。
鋭い太刀筋。だが、外から見れば先を読むには十分すぎるほどに動きが大きい。
恐怖を捨てて踏み込み、距離を潰す。勢いを殺さずに肩から相手の胸に当たる。
相手がわずかによろめいた。それで十分に狙い通りだった。
その背中に、後方から追ってきた二人がぶつかる。三人は縺れて倒れた。
その隙に一息吐けた。
「無様な戦いを見せおって。ええい、俺にやらせろ」
苛立ちを隠さずにヴァルナラムが剣を握る。大股でウィレムに近付いた。
振り下ろされる剣を受ける。やはり、速い。そして、重い。
二撃、三撃、ヴァルナラムの攻めは続く。受けることで精一杯だった。
その時、蛙が潰れたような不細工な声が響き、オヨンコアの隣で兵士が倒れる。
イージンの手で縄が解かれ、オヨンコアは自由になった。
策は成った。だが、ウィレムとイージンたちの間には未だ四人の兵がいる。
「ウィレムの相手は俺に任せろ。そちらはお前らでやれ」
ヴァルナラムの命令で全ての兵士はイージンの方を向く。ウィレムたちは分断された。
「ウィレム、てめえ、死んだら許さねえぞ」
イージンの声が木霊したが、ウィレムに返事をする余裕はなかった。