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第130話 強者の目覚め

 ラジャグプタは舌を巻いた。アンナが初めて戦った時とはまるで別人だったからである。手合わせから一月ほどしか経っていない。残った右目までおかしくなったのかと彼が疑うほどの変わり様だった。


 以前の彼女には躊躇(ためら)いがあった。相手を必要以上に傷付けること、命を奪うことを恐れていた。それが彼女の太刀筋を鈍らせ、ひいては、弱者たらしめていた。

 それは何も彼女に限ったことではない。他者の命を奪う時、人は必ず心の平静を失う。恐怖であれ、歓喜であれ、他のどのような感情であれ、沸き立つものを抑えることは出来ない。それが命と理性を備えた人間の性である。慣れや鍛錬によってその度合いを小さくすることは出来ても、消し去ることは出来ないとラジャグプタは考えていた。

 しかし、目の前で剣を振るアンナには、そんな戸惑いが一欠片(ひとかけら)もない。まるで知らずに虫を踏み付けるように、滞りなく急所に剣を突き立てる。それは人の心の有り様として、如何にも異常に思えた。


 無造作に落ちる重剣を残った剣で受け止めると衝撃で身体が折れた。知らずにいたなら、頭上からヒマーラヤが降ってきたのかと錯覚するところだろう。

 透かさずアンナは二撃目を振り下ろす。一撃目と全く同じ単純な軌道だが、避ける(いとま)を与えない。

 受ける。頭蓋骨を叩き割らんばかりの圧力が襲う。

 アンナはさらに重剣を叩き付ける。身体を強張らせるラジャグプタの鼻から、赤い汁が一筋流れた。鼻腔(びこう)を逆流した鉄の味が口の奥に染み出し、欠けた奥歯と混じって不快感を催させる。


 刃は潰れ、刀身にもひびが入っていた。剣の限界が近い。

 変わらぬ調子で重剣が落ちる。

 ラジャグプタは剣を手放した。開いた右目に重剣を映し、滑るように踏み込む。

 重剣の根元が左肩に潜り込み、肉も骨もなく全てを断ち切って地に落ちた。

 苦痛に顔を歪めても、ラジャグプタは止まらない。残した脚を高々と蹴り上げる。指の間には先程落とした剣が器用に握られていた。

 どこでも良かった。距離を置くために彼女を一瞬(ひる)ませられれば上出来である。


 かすかな感触。アンナが顔を手で押さえた。

 ラジャグプタは左腕を拾い上げると、素早く後方へ跳んで距離をつくった。

 肩の傷に腕を押し込む。傷口に着いた砂粒が擦れて痛みとかゆみが込み上げる。

 神々の加護で傷はすぐに癒えてしまう。その前に腕を付けなければ、傷口が塞がり二度と肩と腕は付かなかっただろう。


 対するアンナは左目を手で押さえている。

 彼女の指の間から大きく裂けた(まぶた)と、そこからこぼれ落ちそうな眼球が見える。

 古傷が一緒に開いたのか、彼女の傷は治りが遅い。ラジャグプタはくっついたばかりの肩を二、三度回してみた。微妙な違和感はあるが、概ね元の感覚と変わらない。だが、その僅かな差が命取りになる相手が目の前にいる。



「出し惜しみは出来ませんね」



 ラジャグプタは呟くと、小声で賛歌を唱えはじめた。透明な歌声に引き寄せられるように地面が盛り上がり、何かが地上に出ようとしている。

 乾いた大地を割って現れたのは黄ばんだ大腿骨だった。続け様に四本の人骨が飛び出した。その骨を見たアンナの表情がたちまち険しくなる。眉が吊り上がり、鼻の付け根に深い皺が寄る。獣のように歯が剥き出しになった。



「これが何かわかりますか。聖塔(ストゥーパ)から掘り出した私の取って置きです」



 軽く撫でると骨の表面が薄皮を剥くようにめくれ上がる。骨の両端に凶暴な刃が具わり、真っ白な金剛杵(ヴァジュラ)が現れた。



「インドラ神の金剛杵は聖仙(リシ)の骨で作られたと伝わります。これはその模造品と言ったところでしょうか」



 人ならざる絶叫が響く。

 ラジャグプタが言葉を切るより先に、アンナが地面を蹴っていた。

 無茶苦茶に振り回される粗野な一太刀をラジャグプタは軽やかに(かわ)す。彼が指で行き先を示すと、二本の金剛杵が重剣の軌道を避けてアンナの脚に突き刺さった。

 獣声が轟き、アンナが両膝を折る。



「その傷は、神の加護をもってしても容易(たやす)くは()えませんよ」



 おもむろに距離を詰める。金剛杵の一本を手に取った。



「今度も私の勝ちですね」



 腕を突き出すラジャグプタ。白濁の刃がアンナの胸に迫る。

 刃先がアンナの柔肌を押し分け、赤い裂け目をつくった刹那、何の前触れもなく大地が鳴動した。激しい縦揺れに、ラジャグプタの手が一旦止まる。

 揺れに応えるようにアンナが吠えた。慟哭のなかに、アンナの声と重なって別の声が響き渡る。人の声にしては凶暴だが、獣の声にしては情感にあふれていた。断末魔の叫びが大気を振るわせて木霊(こだま)する。


 我に返ったラジャグプタは改めて腕を伸ばしたが遅かった。金剛杵の刃はアンナの手のなかにあり、押しても引いてもびくともしない。


 彼女は重剣を杖代わりによろめきながら立ち上がった。

 顔を上げた彼女の表情を見て、ラジャグプタは無意識に退(しりぞ)いていた。瞳に掛かった(もや)は消え、鬼の形相は跡形もない。ただ、凛とした目には力が籠もり、血に染まる白い肌は、満身創痍にもかかわらず、恐ろしいほどに美しかった。彼女を覆っていた瘴気(しょうき)が晴れ、初めて本来の彼女が姿を見せた、そんなことを考えてしまった。


 アンナは現状を確かめるように自分の身体に目を落とし、それからラジャグプタを見た。


 視線が交わった瞬間、(まず)いと思った。

 残る全て金剛杵を投じる。すぐにでも勝負を着けなければならないと、本能が告げていた。両脚に傷を抱える彼女は避けることが出来ないはずだった。


 アンナは重剣を構えることもしなければ、(かわ)そうともせず、ただ、右腕を真上に上げただけだった。

 その手をゆっくりと円を描くように回していく。金剛杵は吸い寄せられるように、音もなく彼女の手の中に収まった。幻を見せられているような感覚だった。


 敗北の文字が頭を()ぎる。同時に、死への恐怖が実感を伴って膨れ上がる。

 生まれて初めて恐れを感じた。生きてヴァルナラムの隣に居続けたいという渇望が喉の奥まで昇ってくる。彼の名を叫びながら、その場を逃げ出したかった。だが、敵を目の前に逃げた者を彼は決して許さないだろう。武人(クシャトリヤ)にとって、逃げること、命を惜しむことは、負けること以上の悪だった。

 誰よりも武人であれという(いまし)めが彼の脚をその場に縛り付けている。


 アンナはよろめきながらも近付いてくる。残り数歩で間合いに入るだろう。

 彼女の剣がゆっくりと上段に昇っていく。膝は痛みに震えているというのに、剣先だけは微塵も動かない。

 頂点で一度止まった刃は、すぐに落下を始める。

 降ってくる剣をラジャグプタは真っ直ぐに見つめた。瞼を閉じないことが、彼に出来る最後の戦いだった。

 吹き下ろす一陣の剣風。だが、その風に血の臭いが混じることはなかった。



「今度こそ、私の勝ち、ですね」



 アンナはラジャグプタの眼前で剣を止めると、口元に無邪気な微笑を浮かべた。

 一瞬、自分が生きている理由を理解出来ず、ラジャグプタはぼんやりと天を(あお)ぐ。重剣が中天の太陽を一直線に割っていた。彼女が力を少し緩めるだけで、彼の命は掻き消える。



「私はまだ生きています。それでも、貴方は勝ったと言い張るのですか」

「生かすも殺すも強者が決めることと言ったのは貴方ですよ、ラジャグプタ様。それに、ウィレムさまは思うままに生きて良いと、私に教えてくださいました」



 彼女に殺気はない。それどころか、戦う意思すらも感じられなかった。



「私を生かしておけば、再びウィレム様に仇為(あだな)すかも知れないのですよ」

「その時は、また私が貴方を倒します。何度来ても返り討ちです」



 平然と言ってのける彼女の顔には、(おご)りも、(いつわ)りもない。あるのは清々(すがすが)しいまでに自然な笑みだけだった。


 彼女の考えは甘い。そう思ったが、彼女ならばそれをやってのけそうな気もしていた。対して、生かされる(みじ)めさばかりが、彼のなかで色を濃くしていった。


 隙を突いて懐に忍ばせた短刀を手に取る。まともに戦うことは出来なくとも、人の命を奪うには十分な代物である。

 自らの首に刃を(そえ)えようとするラジャグプタ。アンナは手のなかで重剣の柄をくるりと回し、簡単に短刀を弾き上げた。



「見かけによらず強情ですね。勝った私が生かすと言うんです。勝手に死ぬなんて許しませんから」



 為す術のなくなったラジャグプタはその場に座り込み、そのまま大の字に倒れた。身体は傷一つ無いというのに、戦う気力は全く湧いてこなかった。何をしても無駄なのだとわかる。



「私はウィレムさまの元へ戻ります。貴方にも帰る場所はあるでしょう」



 脚を引き()りながら、アンナはスメール山に向かって歩き出した。

 半顔の青年は深い息を一つ吐くと、見上げる太陽に主人の顔を重ねて一笑した。

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