第128話 甘いささやき
ウィレムとラジャグプタが対峙する少し前、アンナの元をシャクティが訪れた。先に彼女の姿に気が付いたのはオヨンコアだった。
「シャクティ様、何かワタシに出来ることはありませんか」
オヨンコアの申し出にシャクティは首を左右に振った。
「ここでの戦いじゃ、ケガ人は出ないし、ここにいる子は皆少食なの。今やれることはほとんどないと思う。そんなことよりも、アンナの側にいなくて良いの?」
オヨンコアは座り込んでいるアンナに視線を送った。彼女は金の床に尻を付けてへたり込んでいた。
「彼女は強いですから。ワタシの方が何もしていないと不安になってしまって」
シャクティは腕を組んで視線を宙に泳がせていたが、しばらくして、けたたましく手を打った。その音に驚いてアンナが身体をびくりと震わせる。
「誰か戻ってきたら、血を洗い流してちょうだい。お山に穢い物を入れたくないの」
オヨンコアは頷くと、小走りでその場を立ち去った。
アンナとシャクティ、二人だけが残った。
呆けるアンナの顔をシャクティがのぞき込む。
「アンナはこんな所に居て良いの?」
アンナは顔を上げてシャクティを見上げた。彼女の瞳は底無しに暗く、光さえも呑み込んでしまいそうだった。壁を飾るどんな玉よりも美しく、それでいて見る者を絡め取る怪しい魅惑を帯びている。そら寒さを感じ、アンナは遠慮がちに視線をそらせた。
「ウィレムは戦っているわ。他の皆も、それぞれ、自分の仕事をしてる。アンナは? 貴方だけ何もせずに、ずっとここに座っているの?」
決して悪意のある口振りではない。だが、彼女の言葉を聞いたアンナは再び首を項垂れた。
「わからないんです」
「なにがわからないの?」
独り言のようなアンナの呟きに、シャクティが子どものように聞き返す。
しばしの沈黙が二人を包んだ。
「なにをすれば良いのか、わからないんです」
ゆっくりと言葉を紡ぐアンナ。シャクティはじっくりと彼女を見つめながら、黙って話を聞く。時折、幾度も首を上下させて頷いた。
「ウィレムさまは、思うまま、自由に生きろと仰いました。でも、私、自分が何をしたいのか、わからない。自分の心がわからないんです」
「アンナはウィレムの側に居たいんじゃなかったの」
「駄目なんです。ただ側に居たいだなんて、勝手なこと言ってはいけないんです」
「でも、一緒に居たいんでしょ」
何度もしつこく尋ねられ、アンナは言い淀む。
心の内に問い掛ければ、ウィレムと共にありたいと答が返ってくる。だが、そのために、何もかもかなぐり捨てることが出来るかと問われれば、それは出来ない。ウィレムを守るために矢面に立つことは出来ても、彼のために人の命を奪う覚悟など出来るはずがなかった。
腰に帯びた重剣の柄に手を添えてみる。滑らかに吸い付く握り手は冷たく重い。その手触りが人を斬った感触を蘇らせる。アンナは頭を抱えると、膝を抱くようにして丸まった。
きつく閉じた瞼の裏にナルセスの顔が浮かび上がる。血塗れの死に顔が何か言いた気にアンナを見つめていた。耳の奥ではエドムンドゥスの声が木霊している。
「貴方がナルセス様を殺したこと、ぼくは絶対に許さない」
その声は頭蓋の中で反響し、アンナを四方から責め立てた。
アンナの一太刀が、彼と彼に希望を託した多くの人々の人生を狂わせてしまった。許しを請うことさえ、烏滸がましく思える。彼女にとって、重剣は戦うための武器ではなく、戒めの十字架に変わっていた。
「辛いんだね、何もかも。アンナの気持ち、良くわかる」
頭に柔らかなものが触れ、震える身体を温かな腕が包み込んだ。
「大丈夫。シャクティが魔法をかけてあげる。すぐに気持ち良くなるよ」
埋めた胸から顔を上げると、直ぐ目の前に彼女の顔があった。吸い寄せられるように、底無しの瞳から目が離せなくなる。意識は朦朧となり、彼女の声だけが頭のなかに満ちた。他のことは彼女の声に塗り潰されてわからなくなった。
「アンナにとって、一番大切なものはなあに?」
「それは、ウィレムさま、です……」
唇が勝手に動き、喉が口内の空気を振るわせる。
「そうでしょ。それなら、ウィレム以外ことは全部忘れちゃうの。良い?」
「はい……」
シャクティの小さな手が首筋を伝って頬に触れる。その温度ですらも、既にアンナには伝わらない。
「ウィレムのことだけ考えて。好きな人のために、アンナが出来ることはなあに?」
「剣を取って戦うこと、です……」
「それじゃあ、こんな所に居てはダメ。ウィレムの所に行って、ウィレムの敵を倒さなきゃ。邪魔する人は皆、殺してしまえば良いの」
「はい、ウィレムさまの所に行かなくちゃ……」
虚ろな瞳で立ち上がると、アンナは身体を左右に揺らしながら歩き出した。
彼女の背中を見送るシャクティの顔には、無邪気な笑みが浮いていた。