第127 話 戦場の風
スメール山の麓に地獄絵図が描き出された。
鬼神の腕がヴァルナラム軍の兵士を一掴みにして投げ飛ばす。他の腕は手の中で兵士を握り潰した。血が飛び散り、骨が弾け、悲鳴が止むことはない。なまじ神の加護で傷が癒えるため、兵士は死によって苦痛から逃れることも出来なかった。踏み付けられた兵士がざらつく呻き声を上げ続けている。
運良く鬼神の攻撃を逃れた兵士が、ウィレムに向かって突進した。単調に振り下ろされた剣を躱し、相手の腕を叩き斬る。肉を断つ確かな手応えに反し、切り落としたはずの相手の腕は無傷だった。
狼狽え、躊躇う隙を突かれて、組み付かれる。地面に組み伏され、腹の上に兵士が馬乗りになった。見上げた顔は黒目が大きく開き、視線は散漫で、口からは頻りに荒い息を吐く。狂乱の相がその顔に表れていた。
敵が喉元に押し当てる刃をウィレムは必死に押し返そうとしたが、上から重さを掛けられると跳ね返すのは難しい。刃が少しずつウィレムの首に近付いていく。
急に腹の上が軽くなり、赤い雫がウィレムの上に落ちた。正面から首に剣を突き刺され、兵士は後方へ大きく仰け反った。傷が塞がり、剣が抜けなくなった首を掻き毟りながら、あらぬ方向へ奇声を上げて走り去る。
「あんな狂人に殺されかけてんじゃねえよ」
イージンがウィレムを引き起こす。彼の服は返り血で赤く染まっていた。
「ありがとう」
「まだ戦えるか」
「大丈夫。ただ、僕の力が必要か、わからないけれど」
ウィレムの見据える先では、鬼神がヴァルナラムの軍勢を蹂躙している。それでも、引っ切りなしに敵兵は押し寄せた。ヴァルナラム軍にあっては、敵が目の前にいるならば、逃げることは許されない。戦うことが常に義務づけられている。だからこそ、進軍の勢いが止まり、強大な敵が現れようと、後退する者は一人も居なかった。
「ヒマーラヤでは良く逃げ果せたもんだ。今回はあれが敵じゃなくて助かったぜ」
息吐くイージンの言葉にウィレムも大いに頷いた。何故、鬼神が現れ、ヴァルナラムに敵対するのか、疑いも多く残るが、敵でないことがまず一安心である。
そんな鬼神の一体が戦場の真ん中で動きを止めて固まった。片膝立ちで拳を振り下ろしたまま動かない。不意にその腕を軸にして鬼神の身体が勢い良く回転する。そして、渦を巻きながら薄紫の靄になって霧散した。瞬く間の出来事だった。
残る七体が鬼神の消えた場所を見る。ウィレムもすぐに鳥瞰を飛ばした。
元は鬼神だった靄と巻き上がる土煙のなかに人影が映る。すらりとした細身の身体と、膝までとどく異常に長い腕。輪郭を視線でなぞるだけで、人影の正体が容易に思い浮かぶ。半顔に湛える穏やかな微笑みまでが目に浮かんだ。
煙を裂いてラジャグプタが姿を現す。最も近い鬼神に跳び掛かった。伸びる無数の腕を巧みに躱す様は水面に浮かぶ花弁のように淀みがない。最後には鬼神の腕を駆け上り、瞬く間に眉間に剣を突き立てた。
消えゆく鬼神の身体から着地するラジャグプタに四方から拳の群れが襲う。彼は動揺した様子もなく、すんでのところで拳をいなし、捌いて、受け流した。振り下ろされる拳の雨は時を経るごとに勢いを増したが、一つとして彼をまともに捉えることは出来なかった。
徐々に鬼神の数が減っていく。あるものは切り刻まれ、あるものは地に叩き付けられた。拳の一突きで腹に風穴を開けられたもの、四肢を捻り切られたものもいた。最後の鬼神は真下からの一閃で両断され、無数の泡が弾けるようにして消え失せた。
戦いの一部始終を鳥瞰で見下ろしていたウィレムは、神をも殺すというラジャグプタの実力に背中を丸める。それは並の人間が太刀打ち出来るものではなかった。姿形こそ人と同じだが、それは災害や流行り病のようなものだった。人の手には余る“力”である。
逃げなければならないと本能が警告する。理性も敵うはずがないと言っている。だが、ウィレムの膝には力が入らず、身体を起こすことも出来なかった。
氷の塊を直接心臓に詰め込まれた。そんな冷たい痺れが首筋を縮ませる。
気付かれた。
前髪で隠れた彼の左目の虚が、ウィレムの姿を捉えたのだと直感した。
「奇妙な視線を感じると思えば、やはり、貴方でしたか。これは僥倖です」
両腕を広げたラジャグプタがゆっくりとウィレムに歩み寄る。
「陛下は貴方の反逆を大いに期待しておいででした。さあ、もっと抗う様を見せて、あの方を喜ばせて下さいね」
ゆっくりと歩くラジャグプタの脇を、ヴァルナラム軍の兵士が次々に追い越していく。スメール陣営の隊列は至る所に綻びが出来、その隙間にヴァルナラムの軍勢が勢い込んで突進していた。
怯える身体を腕で引き摺りながら後退するが、それでも二人の距離は少しずつ縮まっていった。既にラジャグプタの穏やかな表情を肉眼で捉えることが出来る。
「おいおい、おいらたちの相手なんて無理にしなくて良いじゃねえのか」
ラジャグプタの前にイージンが立ち塞がる。
相手の攻撃が届かない距離を十分に保ちつつ、ラジャグプタがウィレムに近づく妨げとなる位置を彼は的確に把握していた。
「無理をなさっているのは貴方ではないのですか。随分と汗をおかきですよ」
視線を逸らさずに、イージンが顎を拭う。拭い切れなかった汗が首を伝って襟を湿らせた。
「あんたが抜けると相当な戦力低下だろう。こっちに係ってて良いのかよ」
「ご心配には及びません。鬼神さえいなければ、大丈夫。皆様、お強いですから」
「本当に大丈夫かねえ。こっちにもまだ取って置きがあるかも知れねえぜ」
「ウィレム様以上に注目すべきものが他にあるとは思えませんが」
ラジャグプタの脚は止まらない。イージンの問い掛けに丁寧に返事しながらも、着実に距離を詰める。
起き上がろうとしたウィレムはイージンの顔を見た。瞳を忙しなく動かしながら、身体を一定の調子で揺らしている。何かを見計らっているようだった。
「もう一度訊くけどよ、本当に余所に行かなくても良いのか」
「貴方もしつこい方ですね。それほど私から逃れたいのですか」
「ああ、是非ともお見逃し願いたいね」
イージンが細長い舌を出して上唇を舐めた。目尻が下がり、不敵な笑みが浮く。
ラジャグプタの間合いまで、残り半歩といった所である。
突如、野太い雄叫びが響く。
巨大な戦斧を振り上げ、パドラセーナが躍り出た。彼に合わせてイージンも動く。二人がラジャグプタを挟み撃つ。完全に虚を衝いたはずだった。
雷の速さで落ちる戦斧にラジャグプタの顔が一瞬映る。彼に慌てた様子はない。
動き出したのはパドラセーナが早かった。しかし、戦斧がラジャグプタに届く前に、彼の刃が煌めいた。
一閃、パドラセーナの首が飛ぶ。
一拍遅れたイージンは蹴り落とされて、地面を転がる。
「取って置きも期待はずれでしたね」
ラジャグプタは止まらない。彼の剣は既にウィレムに届く所にあった。
「抵抗も、ここまでですか」
何気なく突き出された彼の剣先がウィレムの喉元に迫った。一撃を防ごうと振るった剣は、敢え無く叩き落とされた。
ウィレムは奥歯を噛む。生きてさえいれば良い。刺される直前、暴れて当たり所を変えれば死を逃れることが出来る。それ以外の方法は思いつかなかった。傷ならばすぐに治るのだ。痛みに耐える覚悟があれば良い。
戦場に鮮血が舞った。だがそれはウィレムの血ではなかった。
「助けに参りました。ウィレム様」
血潮よりも濃い、深紅の髪がウィレムの前に棚引いていた。