第124話 聖山崩し
ヴァルナラムの軍勢は土煙を巻き上げてスメール北縁の山麓に押し寄せた。入山出来ないでいる人々の集う村は瞬く間に呑み込まれた。逃げる武人はどこまでも追われて殺され、刃向かった武人も力及ばずそのほとんどが殺された。バラモンも逆らえば首を刎ねられ、従う者だけが奢侈な装身具を奪われ、衣一枚で放逐された。一面に広がる赤はそこにだけ時を違えた夕日が差しているようだった。
「聞こえているか、スメール山の主よ」
言葉を司るブラフマーの加護を受け、ヴァルナラムの声が石窟に届く。
シャクティは北側の露台に走った。ウィレムたちも彼女の後を追って外に出た。
露台の手すりを握り、目を凝らす。意識を分散させ、その一部を空に放つと階下の景色が手に取るように見えた。鳥瞰の術も随分と上手く使えるようになった。
「あなたのような勝手な人と話したくないわ。さっさと自分のお家に帰ってよ」
シャクティの声を聞き、ヴァルナラムは隣のダルマナンダと顔を見合わせた。
「俺はスメールの主に話があるのだ。まさか高名な聖山スメールの主人が女ということはないだろう。そちらこそ、飯事ならば、余所でやったらどうだ」
「あなた本当に失礼。嫌いよ。ここで一番偉いのはシャクティなんだからね」
子どものような返事に、ヴァルナラムはなに憚ることなく大笑した。その様子を見るだけで彼の高笑いの声が耳の奥に蘇る。
しばし途切れたやり取りはヴァルナラムの言葉で再開した。掠れた声が混じるほどに彼は本気で笑ったようだった。
「ご無礼、お許しを。それではシャクティ殿をスメール山の女主人を見込んでお応え頂きたい。そこに集うバラモン共は与えられた勤めに専心する善きバラモンか」
「あなたが何でそんなことを聞くのか知らないけど、ここにいるのは皆良い子よ」
慇懃な言葉とは裏腹に低く凄むヴァルナラムに対し、シャクティは甲高い声で応酬する。対象的な両者の声が耳から入り、頭の中でぶつかり合うと、聞く者は意識を乱され頭を抱えた。
「務めを果たしているなら言うことはない。だが、武人を引き込んで、良からぬ謀を巡らせていると風の便りに聞いたんでな。俺の覇業を邪魔すると言うなら、容赦なく叩き潰すぞ」
ウィレムは山の外に意識を向けたまま、腿の外側を平手で打った。そうしていないと、膝が独りでに震え出すのだ。ヴァルナラムがやると言った以上、彼は必ずスメール山を攻める。返事は十分に言葉を選ぶべきだった。
「やれるものならやってみなさいよ。お山の上から見ててあげるから」
驚いてシャクティを見ると彼女は自信満々に顔を紅潮させている。たちまちウィレムの顔から血の気が引いた。
「彼を侮ってはいけない。あの人は自分の言葉を覆すような人じゃないんだ」
「大丈夫。ウィレムたちも見たでしょ。あの山と海を越えるのは簡単じゃないもの。ここまで来る頃には、あの子一人だけになってるかもよ」
シャクティはウィレムの忠告を意に介さない。彼女の言うことももっともだが、ウィレムは嫌な胸騒ぎが治まらなかった。
明くる日、ウィレムは低い地響きで目を覚ました。寝床から飛び出し外に出ると、人が北方の露台に集っていた。人垣の外から爪先立ちになってみたものの、視線は外まで届かない。朝のぼやけた意識では鳥瞰の術を使うのも難しかった。
不意に袖を引かれて振り向くとシャクティが身体を小さくして、手招きしていた。彼女に付いていくと別の露台に連れていかれた。人が少なく、遠くまで見渡すことが出来る。目があったパドラセーナと軽くあいさつを交わした。
「無憂王の間者、というわけではないようだな」
起抜けの乱れた頭を見て、パドラセーナが鼻で笑う。真剣な顔つきのままなので、本気なのか、冗談なのかわからない。彼はすぐにウィレムから視線をはずすと、隣にいるシャクティに話しかけた。
「彼らは何をするつもりなのでしょうか」
「パドラセーナは、もしものために、クシャトリヤを集めて闘う用意をして。それから、バラモンには、活力を高めておくように言っておいて」
彼女の声は珍しく固かった。口調から察するに余裕がないわけではないのだろうが、徒ならない緊張が伝わる。
パドラセーナは一礼するとすぐに露台から出て行った。
「そんなに拙い状態なのかい」
「あれ見て。あんなこと考えるなんて、信じられない。酷いわ」
怒気を孕む声に促され、視界を飛ばす。
縦に並んだ隊列の一番前、数十頭のゾウに引かれた巨大な車が、七台横並びになっていた。荷台には建物の残骸が乗っている。崩れた石壁の欠片が見て取れた。
「あれ、聖塔よ。まだ少し活力を感じるもの」
早朝の地響きの理由を理解しウィレムは手を打ったが、建物の残骸をどのように使うのか、全く見当がつかなかった。
さらに良く見ると、聖塔の前に細身の青年の姿がある。彼が膝まである長い手を上げると、その動きに合わせてドラが打たれた。
ラジャグプタに最も近い聖塔が、ゆっくりと崩れていく。石版は割れ、砂岩は砕けた。欠片はさらに細かくなり、聖塔はわずかの間に砂の山に帰った。
一度形を失った砂粒は渦を巻くように集まり、絡み合いながら新たな形を練り上げる。中央のくびれた楕円形、その両端は鋭い刃を備える。聖塔の残骸は巨大な金剛杵に姿を変えた。
ラジャグプタが金剛杵に手を伸ばす。
金剛杵の側面に触れたまま肩を引き、身体を反らせて体重を後ろ脚に乗せた。
ウィレムは自分の想像を否定するために頭を振った。しかし、彼の体勢から他の動作をすることが想像できない。
ラジャグプタの動きがぴたりと止まる。
肩の高さまで上げた前の腕はスメール山の方角に向いていた。
撓んだ身体が、一瞬で集めた力を解き放つ。
投げた。
金剛杵はスメール外縁の山裾に当たった。
爆音が轟き大気の震えがウィレムの元まで伝わる。両耳を塞いだが、衝撃は直接肌を打ち、腹に響いて身体の芯を震わせた。
舞い上がった砂塵のなかで、衝突音とは別の音が響く。山が悲鳴を上げていた。
次の瞬間、激流が山肌を呑み込んで暴れ出た。穿たれた穴から海水が流れ出て、辺り一面に広がり、水浸しにした。
水の神の加護を受けているのだろう。ヴァルナラム軍の周りだけは流れが襲うことはない。一つ目の海の水は瞬く間に尽きた。
ラジャグプタが次の聖塔に歩み寄っていく。
スメール山を囲む山脈は残り六峯。金剛杵は六つ残っている。