第123話 招かれてスメール
スメール山の断崖には突き出た露台が幾つかある。シャクティに連れられて、ウィレムたちはその一つに降り立った。大船に乗っていたバラモンも一緒である。
宙に浮かぶというのは何度経験しても奇妙な気分だった。足裏が地面に着いていないと脹ら脛の辺りに微かな痺れが停滞し、下腹の奥がむず痒くなる。血が小刻みに震えながら、ゆっくりと脈を拍つようで、もどかしい。着地した時には大きなため息が溢れ出た。
「ウィレムは恐がりだねえ」
シャクティはウィレムを笑ったが、言い返す気力もなかった。
露台の奥、岩肌に空いた石窟のなかから数人の男が駆けてくる。屈強な男たちの先頭に見覚えのある顔がいた。
「お一人で突然お出掛けになられては困ります。責めてお供をお連れ下さい」
「ごめんね、パドラセーナ。でも、あと少し遅れたら、ウィレムがお魚になっちゃうところだったんだもの」
人の形をした肉の塊がシャクティの後方に視線を送る。ウィレムは一歩前に出ると、丁寧に名乗りながら手を差し出した。
「どこかでお目にかかりましたかな。お顔を拝見するのは初めてでない気がする」
パドラセーナは差し出された手を取りながら、ウィレムの顔を念入りに見つめた。ウィレムは一瞬言葉に詰まった。
「迦陵伽の戦いの折り、お見掛けしました」
逡巡の後、搾り出した短い言葉を聞くと、パドラセーナは握った手に力を込めた。指が軋み、手首が悲鳴を上げる。手が拉げるのではないかと思えた。自然と口から喘ぎ声が出る。
二人の間で何が起きているのか、周りの者はわからない。ただ、ウィレムの顔が苦悶に歪むのを不思議そうに見ているだけである。アンナとオヨンコアも表情を曇らせてはいるが、二人の間に割って入るようなことはしなかった。
「止めてよ。ウィレムはシャクティの大事なお客さんなのよ」
シャクティが背伸びをして、パドラセーナの額をぴしゃりと打った。目を瞬かせたパドラセーナはゆっくりと力を緩めると、丁重に、それでいて短く非礼を詫びた。ウィレムも彼を責めようとは思わなかった。
一同は岩窟のなかへ迎えられた。
石窟のなかは日の光が満足に届かないにもかかわらず、十分過ぎるほど明るい。金や玉の壁がぼんやりと優しい光を放ち、目が眩むことさえあった。熱くもなく冷たくもなく、空気は適度に湿っていて快い。刳り貫かれた天井は高く、細やかな彫刻で彩られた壁や柱は、見る者に感激の吐息を催させた。
アンナが物珍しそうに眺めていると、シャクティは壁の紅玉を無造作に捥いで渡した。恐縮して受け取ろうとしないアンナに対し、彼女は贈り物だからと言って無理矢理に受け取らせた。オヨンコアにも贈ろうと彼女は再び壁に手を伸ばしたが、オヨンコアは丁重に断った。
しばらく歩いて気付いたが、石窟のなかは僧形の人物が目に付いた。皆、気品にあふれ、穏やかな威光を周囲に漂わせている。正視することも恐れ多く、視界の端で盗み見ていると、バラモンたちは両手を合わせてシャクティのことを拝んでいた。
「シャクティは結構偉いのよ」
と言って、彼女は胸を反らせた。
伴に来たバラモンたちと別れ、ウィレムたちだけがシャクティと奥へと進む。
上がり下がりを繰り返しながら、道は徐々に狭くなった。壁の装飾は簡素になり、人の声も疎らになる。玉の放つ光も陰り、辺りは仄暗さに包まれていった。
「どこへ連れてくつもりだ」
イージンの問を無視し、シャクティはあと少しだと言って脚を進める。ウィレムは足取り軽い彼女の背中を困惑しながら追いかけた。
「凄い――」
辿り着いた部屋でウィレムは言葉を失った。
部屋は一面碧玉で覆われ、壁や天井から緑青を透かした光が舞い散り、部屋中を満たしていた。中央にはやはり碧玉で作られた三本足の巨大な杯があり、透明な液体が並々と注がれている。溜め池を思わせる杯の真ん中には祭壇のような高台が設けられていた。見上げる高台の上は眩さに包まれて、確かめることが出来ない。
「すごいでしょ。ここはスメールの真ん中で、一番大事なところなの」
シャクティは胸を張る。皆、黙って首を縦に振った。
「どうして、僕らをそんな大切なところに連れて来たんだい」
「それは……」
シャクティが喋りはじめた時、大きな衝撃が緑の部屋を襲った。部屋は一度大きく上下して止まったが、水面は泡立ち、無数の波紋が出来た。
「なんなんだ。最近揺れすぎじゃねえか」
「何か不吉な感じがしますね」
身を屈めるウィレムたちに、シャクティは大丈夫だと言って勇気づけた。
「安心して。きっと又、聖塔が一つ倒されただけだから」
彼女の声は落ち着いていたが、その表情がわずかに濁る。
「この揺れは聖塔を崩した所為で起きたものなのかい」
「そうよ。あれはお墓みたいなもの。この楽園にとって、とっても大切な人の」
シャクティの瞳が悲しみに潤む。
その時、杯を湛えた水が輝き、そこに離れた場所の光景を映し出した。
走り寄ったウィレムが水面に見たのは、整然と隊列を組んで進軍するヴァルナラムの軍勢だった。