第122話 聖山スメール
遙かに見上げる頂は白雲を突いて中天に消える。そびえる黄土色の北壁が見る者を威圧するように覆い被さる。その山は全てのものを見下ろしながら、ただそこに立っていた。
スメール山の麓には、人が集まり小規模だが村のようなものが出来ていた。柱と屋根だけの荒ら屋や、布を吊しただけの簡素な住まいがあちこちに見える。土の上に直接腰を下ろし、そこで暮らす者も多い。ウィレムたちはそんな人々のなかに紛れ込んでいた。
「全然ダメだ。頭の固い連中ばかりで話にならねえ」
「僕も同じ。話も聞いてもらえなかった」
一度村に散っていたウィレムたちが一所に会する。人々から話を聞こうとしたが、シカンデーラの伝承を集めるどころか、スメール山へ至る正しい山道さえもわからなかった。
「お山ですから、登れば良いのでしょうけど」
仰ぎ見るオヨンコアの顔に影が差す。
彼女が途方に暮れるのも無理はない。スメール山の周囲には七重の山脈が連なっている。圧倒的なスメールの前では霞んで見えるがどれも険しい大山である。ウィレムたちがいるのは最も外側の山の裾野だった。
仲間たちには話していなかったが、ウィレムには他にも気掛かりがあった。
目の前にしてわかったことだが、ウィレムはスメール山を知っていた。聖仙シャーキヤとの語らいで最後に見た怪しい大山がスメール山だったのだ。その時感じた滑りのある風を思い出すと、肌が粟立つ。
時折、山に入った者が戻ってくることがあったが、皆一様に意識は薄弱で、呼び掛けても気付かない者さえいた。
「どうすりゃ、山登っただけで、あんなになっちまうかねえ」
「ただの山じゃない、っていうことだろうね」
ウィレムとイージンはヒマーラヤの山中で遭遇した幻の館が思い出した。崇敬を集める山には人ならざる者が住むというのは所を問わないようである。エトリリアにも似たような伝承の残る山や湖が幾つかあった。
入山に二の足を踏むウィレムたちに対し、アンナは不自然なほどに事態を楽観視していた。スメール山に近付くにつれて口数も増している。
「きっと大丈夫です。ヒマーラヤだって越えられたではありませんか。私も前のような不甲斐ないことにならないよう、一生懸命、頑張りますから」
彼女がそう言うとウィレムの気持ちも傾いていく。オヨンコアとイージンは慎重な行動を促したが、結局、ウィレムたちは山に入ることにした。話し合ってみたが他にやりようもなかった。
初めは緑に包まれていた山の斜面は、三日目には土と岩だけになった。スルヤの教えを思い出し、無理をせず、時間をかけて登ったことが良かったのか、以前のようにアンナが体調を崩すこともなかった。
見下ろすと下界は薄紫の靄のなかに消え、戻る道もわからない。目に映るのは山頂へと延びる道だけである。皆、日に日に口数が少なくなった。イージンでさえ、おふざけを控えている。靴底が地面を捉える規則正しい調子に混じり、時折自分の名を呼ぶ声が聞こえ、ウィレムは立ち止まって辺りを見回す。だが、彼の起こした風によって靄が小さく渦巻くのが目に映るだけだった。
五日目、辿り着いた頂の先を見て、ウィレムは目を疑った。
「これが、“海”」
思わず言葉が唇の間からこぼれ落ちる。アンナとオヨンコアも見渡す限りに満ちた膨大な水に息を呑んだ。
「どうだ、言った通りだろう。まあ、実物を見るのはおいらも初めてだがな」
胸を張るイージンに、岩の上から身を乗り出していたウィレムは興奮気味に何度も頷いた。
スメールを囲う山々の間には「海」が広がっているということは前もって耳に入っていた。聞き慣れない言葉に首を傾げる三人に対し、イージンは波立つ巨大な水溜まりを「海」と呼ぶのだと教えた。
彼の説明を聞いたところで、到底信じることは出来なかった。しかし、目の前に広がる「海」はウィレムの想像を遙かに超えている。川や湖とは比べものにならない大量の水が深い青に染まり、波は激しく岸に打ち付ける。
山肌に砕ける白波と呼び合うように血潮が激しく脈を打つ。わけのわからない高揚がウィレムの身体を震わせた。
「これ、向こう岸まで渡れるものなのでしょうか」
オヨンコアが岩肌をしっかりと掴みながら、頭だけを出して下をのぞき込む。脚の間に挟んだ尻尾が落ち着きなく動いていた。
「何をそんなに恐がってんだ。船があるって話じゃねえか」
イージンが彼女の背を軽く叩くと、飛び上がって振り返る。一拍置いて息を整え、彼女は恨めしげに喉を鳴らした。彼女らしくない取り乱しように、イージンも謝るほどだった。
しばらく降りると、なるほど山の中腹に寂れた小屋が建っている。小屋の目の前まで海が迫り、小さな船着き場が設けられていた。
小屋に入ると僧衣の男性がウィレムたちを迎え入れた。奥にも同じ格好の者が数人、身を寄せ合っている。聞けば、彼らはヴァルナラムから逃れるためにスメール山を目指すバラモンの一行ということだった。
「これはこれは、貴方たちもスメールへ参るのですか。宜しければ、我々の船で共に行きませんか。旅は道連れと申しますし」
バラモンの誘いに、文字通り渡りに船とウィレムは喜んだが、彼らの船を見た途端、イージンが頑なに申し出を断った。結局ウィレムたちはバラモンたちとは別に、小舟で海に乗り出すことになった。
「我らの船は大乗の船。気が変われば、いつでも声をかけて下さい」
そう言って先に出発する彼らの船をウィレムは船着き場で見送った。
「何で船に乗せて貰わなかったのさ」
小舟の舫い綱を解きながら、ウィレムは不満そうにイージンを責めた。一行の小舟は四人が乗り込むのが限界で、空きはほとんどない。窮屈な船底にもぐり込むと、脚を伸ばすことも出来なかった。
「お前もほとほと文句が多いな。あの船は拙いんだよ。図体がでかいわりに、船底が浅い。あれじゃあ喫水が稼げねえから、波風で簡単に素っ転ぶ。それにな、大乗船なんて言ってたがよ、人数乗せられる大船ってのは、それだけ操るのも難しいだ。会ったばかりの奴の舵取りに、命を預けるなんて御免だぜ」
そう話すイージンの櫂捌きは確かに見事なもので、波に流されるでも逆らうでもなく、舟は真っ直ぐに進んだ。
舟が沖に進むにつれて、波は高く激しくなる。波飛沫を受けてウィレムの顔が曇ると、イージンは不安ならば舟に身体を縛り付けろと言って口元を吊り上げた。
強まる波風を受け、小舟は軋みながら上下に揺れる。前も後ろもわからなくなり、ウィレムは舟にしがみついた。目の前の景色が回転し、内蔵が腹の中で宙吊りになって暴れている。頭痛と吐き気に耐えながら、半分閉じた瞳で波間を見ると、先に出たバラモンたちの船が高波に持ち上げられるのが見えた。空を舞った大船は水面に落ちて砕け散る。
無数の木片が飛び散り、その幾つかはウィレムたちの小舟の方向にも飛んだ。イージンは舟を操ってそれを躱したが、全てを避けることは出来なかった。
「オヨン」
アンナの悲鳴が響く。
大船の破片の一つが舷を掴んでいたオヨンコアの手に突き刺さる。思わず手を離した彼女の身体は、荒れ狂う波の上に投げ出された。
アンナが彼女を追って飛び込もうとする。ウィレムは全力でアンナを抱き留めた。
「ウィレムさま、オヨンが、オヨンがあそこに」
暴れるアンナの力は荒波よりも激しく強い。千切れそうな腕を幾度も握り直す。
オヨンコアは両腕を必死にばたつかせ、海面に現れては沈みを繰り返していた。
「イージン、舟をオヨンコアに近付けて」
「無茶言うな。この波だぞ」
「でも、このままじゃあ」
オヨンコアの踠き方は泳げない者の動きに見えた。海を見た時の不安そうな彼女の顔が頭を過ぎる。
「僕が行って、彼女を助けてくる」
「馬鹿、正気か。お前まで死んじまうぞ」
「このまま彼女を放ってはおけないよ。イージンはアンナと舟をお願い」
ウィレムは僧衣の袖をたくし上げた。暴れるアンナを抱き締め、落ち着くように耳打ちする。戸惑うアンナの手を振り切って立ち上がろうとすると、舟が不自然に揺れてウィレムは尻餅を突いた。
目の前に櫂の持ち手が突き付けられる。
「邪魔しないでくれ。絶対にオヨンコアと一緒に戻ってくるから」
睨みつけたイージンの口からため息が漏れた。
「誤解すんな。おいらは万が一にもお前に死なれちゃ困るんだ。お前は何があってもこの舟を離すんじゃねえぞ。例え舟が転覆してもだ」
イージンはウィレムの手に強引に櫂を握らせると、揺れる舟上から逆巻く梅へと跳び出した。止める暇もなかった。
大きく踏み出したイージンは、オヨンコアに向かって真っ直ぐに宙を躍る。だが、その距離は彼女がいる場所までには至らず、大分手前で失速した。
イージンは水面を漂う大船の欠片の上に降り立つ。彼の足が爪先から板の上に着地すると、重さに負けた木片は海中に沈んだ。
だが、木片の表面が水に浸かりきる前に、イージンは次の木片へと跳んでいた。
一つ、二つ、イージンが軽やかな身のこなしで波の間を跳び進む。
三つ、四つ、五つ、彼の足が水面に触れることはない。
八歩目、イージンが大きな木材の上に着地した時、彼の目の前にはオヨンコアの姿があった。手を伸ばし彼女を木材の上に引き上げる。全身ずぶ濡れで顔は真っ青だが、彼女は確かに息をしていた。
小舟から見ていたウィレムは、オヨンコアの無事を知り胸を撫で下ろす。アンナの身体からも力が抜け、強張っていた表情も和らいだ。
ほんの一瞬、うねる波間にあって、ウィレムたちの気持ちは弛緩した。
そこに白い飛沫を上げて、巨大な波が襲いかかる。波の影が小舟を包み、引き寄せて呑み込もうとする。ウィレムはアンナを腕に抱いて両目を閉じた。
「危ない、危ない。あとちょっとでお魚のお昼になるところだったわ」
大波が小舟を打つことはなく、海水に代わって頭上から女性の声が降る。ウィレムは恐る恐る瞼を上げた。波はまさに小舟を呑み込む直前でぴたりと止まっていた。波飛沫の粒が空中で固まり、見渡す海原全体が凍ったように動きを止めている。
「ウィレムたちを助けるのは、これで何回目かな。そろそろお返しが欲しいなあ」
見上げた波頭の上に両膝を揃えて座るシャクティは、ウィレムに笑顔を投げ掛けた。