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第120話 擦れ違い

 明け方の澄んだ空気が無憂城(アショカプラ)を包む。黄金に輝く王宮の廊下を忙しない足音が通り抜ける。勤めを終えた不寝番(ふしんばん)の兵が足音の主を見て道を開けた。足音はまだ静かな王の寝所へと(ほこり)を巻き上げながら入っていった。



「おい起きろ。何故あの不届き者らに追っ手を差し向けぬ」



 ダルマナンダは激しい息遣いで歳に似合わない大声を張り上げた。彼はウィレムたちから解放され、夜明け前に無憂城下に戻ったばかりだった。

 無理矢理起こされたヴァルナラムは眠たそうに目を擦りながら大きく伸びをした。開いた口から大きな欠伸(あくび)が漏れる。



「おう(じじい)、無事帰ったか。心配で昨夜はなかなか寝付けなかったのだぞ」



 寝床から起き出して裸体に上衣を引っ掛けつつ、ヴァルナラムは欠伸混じりで返事をする。落ち着いた彼の様子が老人を余計に苛立(いらだ)たせた。



「何をのんびりしているのだ。早くせぬと、彼奴等(きゃつら)を取り逃がすぞ」

「放っとけ、放っとけ。あれはそのまま逃がしてやれば良いんだ」



 王のいつになく大らかな態度をダルマナンダは(いぶか)しんだ。昔からものには執着の薄い男だったが、気に入ったものは何をしてでも手に入れたがる質だった。それが物であれ、人であれ、形の無い地位や名誉であれ、どんなものでも。

 自分の腕の中に入ったものをそう簡単に手放すとは思えない。執拗に追い回し、手段を選ばず連れ戻すと思っていた。



「お前、どこか具合でも悪いのか。それとも、あれには既に飽きたのか」

「俺の身体は至って健康だ。見ろ、この肉体を」



 そう言ってヴァルナラムは力瘤(ちからこぶ)をつくる。隆起した腕の筋に血管が浮き上がり、差し込む朝日を受けて浅黒い肌が(きら)めいた。

 ふざけた態度に辟易(へきえき)としたダルマナンダは、(きびす)を返して部屋を出ようとした。



「まあ待て、爺。俺の話を最後まで聞け」



 呼び止められたダルマナンダは半眼で起き抜けのヴァルナラムを眺めると、朝食の時にでも聞くと言って部屋を出て行った。



「ウィレムの奴はな、野に放った方が面白いと思うのだ」



 数種の香辛料で煮込んだレンズマメを頬張りながら、ヴァルナラムは力説する。ダルマナンダは自分の顔に飛んだ豆を(つま)みながら、しかめ面をさらに曇らせた。

 言葉遣いと一般生活における礼儀作法は、どれだけ教えても覚えようとしなかった。そのこと自体に後悔は微塵(みじん)もないが、時折ヴァルナラムの態度がどうしても我慢ならないことがある。



「いったい、どう面白いというのだ」

「俺はな、牙を抜かれ、飼い慣らされたトラよりも、手負いの野良ネコの方が魅力的だと思うのだ」

「奴はネコだというのか」



 ダルマナンダの返答に、ヴァルナラムの瞳が輝いた。



「そうだ。普段は大人しく、いかにも無害そうな顔をしているくせに、ここぞという時は相手の大きさも(かえり)みずに噛み付いてくる。そこらの情けない武人(クシャトリヤ)どもよりも、余程見所があるというものだ」



 不敵に口元を(まく)り上げる彼の顔は人間よりも獣に近いように思えた。



「差し詰め、お前は獅子というところか。次に会えば容赦なく狩るつもりなのであろう。だが、良いのか。奴を吉兆の使者だと喜んだのはお前ではないか」



 ヴァルナラムはダルマナンダの表情から彼の不安を読み取り、すぐに表情を引き締めた。頬のなかのマメも全て呑み込み、空になった口から言葉を(つむ)ぐ。



「ここまで来て、誰が覇業を止めるものかよ。あいつは単なる切っ掛けに過ぎん」



 瞬く間に王の顔に戻った彼を見て、ダルマナンダの顔が(よこしま)な喜悦に染まる。古木の裂け目のような唇が目尻の下まで吊り上がった。自分のつくりあげた傑作を前に老人は至上の幸福を感じていた。



「全部あんたの言う通りだったよ。バラモンも、武人も、皆、腐っていた。この地が楽園なんてのは、まやかしでしかなかった」



 ヴァルナラムの言葉に、ダルマナンダは頷きながら、ほくそ笑む。



「今だから言うが、俺は爺に感謝してんだ。俺を塵溜(ごみた)めから拾いあげ、本物の武人てものを教えてくれた。俺をこの無憂城の主にしてくれたのもあんただった」



 ヴァルナラムの声にいつにない温もりがこもる。ダルマナンダは余所を向き、素っ気ない素振りで彼の言葉を聞いていた。



「だからよ、俺が爺の言っていた在るべき世界ってのをつくってやる。増長したバラモン共を駆逐して、堕落した武人共を排除する。やるからには徹底的にな」



 彼が握り拳で床を叩く度に、何度も器が飛び上がり、なかの食べ物が辺りに散った。香辛料と香の匂いにヴァルナラムの汗が混じり渾然となったものが天井近くに充満している。



「もうすぐだ。俺の覇業の半分はあんたのものさ。それが済んだら、やっと爺の肩の荷も下りるってもんだろう」



 それまで高慢な笑みを浮かべていた老人の顔に不審の色が表れる。ヴァルナラムの言葉の意味がわからないといった風に眉間の皺が深くなった。そんな老人の様子を気にも留めず、ヴァルナラムの舌は動き続ける。



「あんたが俺を拾ってから、もう二十年以上経つだろう。その間、あんたは俺に付きっ切りだった。だから、全部終わったら、あんたは自分の修行に戻りなよ」



 その言葉を聞くなり、ダルマナンダは勢い良く立ち上がった。顔色は見る見るうちに赤黒く変わり、表情は固く強張っていく。肩をぶるぶると揺らし、ひび割れた唇をぱくぱくと開く。だが、老人の急変にヴァルナラムは気付かない。いつもの癇癪(かんしゃく)かなにかだと考えているのだろう。



「どうしたんだ急に。心配するな。統治も武人の勤めだと言うのだろう。もう耳に胼胝が出来るほど聞いたんだ。あんたが居なくても俺ならば上手くやるさ」



 既に彼の言葉はダルマナンダの耳に届いていない。身体を戦慄(わなな)かせたまま部屋を出て行く老人の姿を、ヴァルナラムは不思議そうに見送った。

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