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第119話 大脱走

「こいつの命が惜しけりゃ、道を開けな。ちょっとでも怪しい動きをしてみろ。爺さんの命の火が、あっという間に消えちまうぞ」



 イージンの声が王宮中に響き渡る。駆けつけた兵士がウィレムたちの姿を見て身体を強張らせた。

 ウィレムの隣にはアンナが寄り添い、二人の前にはイージンが、後方、進む先にはオヨンコアが付いて、辺りの様子をうかがっている。そして、四人の中央にはウィレムによって後ろ手に拘束されたダルマナンダの姿があった。



「お前ら、儂にこんなことをして、ただで済むと思っているのか」



 ダルマナンダはしわがれ声でウィレムたちを(ののし)りながら、身体を(ねじ)る。あまりにひ弱な老人の力に、ウィレムは哀れみさえ感じた。


 覚悟が決まれば、実行は難しくなかった。

 ダルマナンダの普段の動きと、衛兵の持ち場、ウィレムたちに付いている見張りが無用な揉め事を禁じられていること、それらがわかったことで脱出は現実味を帯びた。情報を集める時、イージンが配って回っていた“心付け”が大いに役立った。


 無駄な抵抗を続けるダルマナンダは、王宮の奥から現れたヴァルナラムの姿を見ると、一際けたたましく叫んだ。



「おい、早く儂を助け出せ」



 普段以上に不遜な態度に、ウィレムの抱いていた哀れみは呆れに変わる。

 ヴァルナラムはウィレムたちを取り巻く兵の一番前に躍り出た。その顔には引き()った薄い笑みが浮かんでいる。



「随分と思い切ったことを考えたな、ウィレム」

「僕たちは無事に無憂城(アショカプラ)を出たいだけです。邪魔をしないで頂ければ、ダルマナンダ殿を無傷でお返しすることを約束しますよ」



 喉の震えが声を固くする。身体が火照(ほて)り、微風(そよかぜ)が吹いても肌は熱を失わない。



「お前は(じじい)を殺せんよ。それでは人質の意味がない」



 ヴァルナラムが一歩踏み出す。その一歩で彼の放つ圧力が数倍に膨らんだ。



「おっと王さん、動くんじゃねえよ。うっかり、おいらの手が滑るかも知れねえぞ。剣や槍が無くてもよ、人を殺すなんて訳ねえことなんだぜ」

「俺はウィレムと話しているのだ。木っ端(こっぱ)者は口を挟むな」



 激しい覇気が一帯を疾走する。その場にいた全ての者がたじろぎ、ヴァルナラムに目をやった。腰を引き、物陰に隠れる兵までいた。


 辺りへの注意を忘れ、ヴァルナラムに目を向けたのはほんの一瞬のことだった。

 その間隙(かんげき)を突いて、一番高い(やぐら)から金剛杵(ヴァジュラ)が飛ぶ。

 気付いた時には金剛杵はウィレムの目の前に飛来していた。避ける余裕はない。



「ウィレムさま」



 横から勢い良く押され、ウィレムはダルマナンダを抱えたまま倒れ込む。すぐに顔を上げると、アンナが(うつぶ)せに倒れていた。腰の辺りに血の赤がにじむ。

 オヨンコアがすぐに彼女に駆け寄った。一斉に動こうとした兵に向け、イージンが鋭い視線で牽制する。



「ばっ、馬鹿者。儂に当たったらどうするつもりだ。早く止めさせろ」



 ダルマナンダの悲鳴に応え、ヴァルナラムが渋々手を上げて櫓の射手に合図する。



「残念だったな。さあ、門を開けてもらおうか。それから馬を二頭用意しろ。一番良い馬を頼むぜ。こちとら馬にはうるさいんでな」



 ヴァルナラムが顔をしかめて頷き、王宮の正門が音を立てて開く。その間をウィレムたちを乗せた馬が通り抜けた。


 大通りの人混みを裂いて進み、城門を出て西へ駆ける。追っ手との間には常に弓が届かないだけの距離をとった。

 アンナは腹を手で押さえたまま、馬の背に身体を預けていた。既に血は止まっていたが、時折上がる呻き声に、ウィレムはその度に握った手綱を緩めそうになった。


 陽が落ち、空が藍色に染まるまで馬を(はし)らせた。追っ手が宵闇(よいやみ)でウィレムたちを見失う頃、馬を止めてダルマナンダを降ろす。



「貴様ら、この恨み、いつか晴らしてやるからな。覚えておれ」



 月光と星明かりに浮かぶ老人の表情は忌々しげに歪んでいた。



「非礼はお詫びします。僕らに付き合わせてしまい、申し訳ありません。それで、失礼ついでに、最後に一つ、(うかが)っても構わないでしょうか」



 低姿勢のウィレムに老人の眉間がわずかに(ほころ)ぶ。どうせ断ることもさせんのだろうと悪態を吐きながら、彼は要求を受け入れた。



「何故、貴方はヴァルナラムさまの無茶な出兵をお(とが)めにならないのですか。貴方の言葉なら、あの方も耳を貸すでしょうに」



 ウィレムが尋ねると、ダルマナンダは鼻の奥を揺らしてくつくつと笑った。



「何故止める必要がある。儂の育てた小童(こわっぱ)が、バラモンも、クシャトリヤも、皆放逐して覇業を為そうとしているのだぞ。これほど愉快なことが他にあるか」



 皺の間からのぞく老人の瞳に暗い悦楽の色をウィレムは見た。



「狂ってやがるぜ」

「儂は正常だ。それを認めぬこの世界が狂っているのだ」



 それ以上、彼と語ることはなかった。

 老人に灯を渡すと、ウィレムは馬の首筋を軽く叩いた。馬はゆっくりと脚を前に出す。背に月明かりを浴びながら、ウィレムたちはガンガー川の上流に向けて進み出した。

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