第117話 強者とは
「貴方も誰かのために強くなったのではないのですか」
ラジャグプタの言葉は、悩み苦しむアンナの心の中央に真っ直ぐ突き刺さった。そして、その答が自分のなかに無いことを知ると、彼女は深くうなだれた。
「私は強くなろうと思ったことなんて、一度もありませんでした」
言葉にすると、虚しさはより一層濃くなった。
強さを求めたことがないというのは本心だった。彼女はただ強かったのだ。
剣も弓も、馬乗りも、思う儘になんでも出来た。他の子どもが半年かかって覚える技も、一目見ればすぐに真似することが出来た。それどころか、手本を見せた者以上に、上手くやれることがほとんどだった。
だからこそ、困難な技を巧みに繰り出す者を見ると心は踊り、容易に勝てない相手との競い合いには血が沸いた。ただ単純に、戦うことが楽しかった。
「私は初めから強かったのです。それが当たり前で、強くあろうなんて考えもしなかった。だから、ウィレムさまに付いていこうと決めた時も、自分の力があれば、大丈夫だと思ったのです」
ラジャグプタは彼女の正面に腰を下ろしたまま、黙って話を聞いている。半分の顔から、彫刻のような微笑みが消えることはなかった。
「でも、私は甘かった。どれだけ力が強かろうと、技が冴えようと、そんなもの強さでも何でもない。以前も言われました。『主の命が危ういというのに、敵の命を奪う覚悟も決められない』と。実際、楽しさにかまけて、ナルセス様を殺した途端、私は戦うことが出来なくなった。全て、指の間からすり抜けていった。そんな私が、ウィレムさまの隣に居る資格なんて、きっと無いんです」
取り乱すアンナを慰めることもなく、ラジャグプタは腕を組んで考え込んでいたが、ゆっくりと立ち上がり、中庭の端の方へ歩いて行った。戻ってきた彼の手には、一本の木剣が握られていた。
「貴方がそれほどお強いというなら、一つ私とお手合わせ願えませんか」
思いも寄らない申し出にアンナは思わず頭を上げた。睫に溜まっていた雫が勢い良く飛び散って、乾いた土の上に水玉の模様を描く。
「駄目なんです。剣を握るとあの感触を思い出すんです。ナルセス様の身体が、命が、簡単に潰れて弾ける手触りが」
「これは真剣ではありませんし、私はそう簡単に死にはしませんよ」
微笑みを崩さずにラジャグプタは木剣の柄を差し出す。アンナが何度断っても、彼が諦めることはなかった。
結局アンナは剣を受け取った。
握った剣を軽く振る。
手のなかの木剣は武器というには余りに軽い。命のやり取りをする道具を模してはいても、それが偽りものだということは振った手応えで十分にわかった。
「準備は良いですね」
両手をだらりと下げたラジャグプタが庭の反対から声を掛ける。ウィレムと戦った時と同じ、無形の構えをとっていた。
困惑するアンナの意思を置き去りに、彼女の身体は勝手に構えた。
左脚を引いて半身になり、剣を握った右腕を水月の高さに持ち上げる。
肘は柔らかさを失わぬよう微かに曲げ、膝に余裕を持たせつつ、腰を落とす。
以前と変わらない自分の構え。寸分違わず、ぴたりと合う。
心にわだかまりが残っていようと、身体は戦いを忘れていなかった。
少しずつ二人の距離が詰まる。
ラジャグプタは迷いなく剣を振るった。
考えるよりも先にアンナの身体が一歩踏み込む。懐にもぐり込んだ。
普通の相手ならば、懐に入れば相手の剣は届かない。だが、ラジャグプタの剣は真後ろから飛んでくる。
気配を頼りにしゃがむと、頭上を剣が通り過ぎ、同時に相手の膝が迫り上がる。
身体を横に倒して膝蹴りを躱すと、無防備な右脇が目に入った。
好機。
腕を振ろうとして、一瞬身体が固まった。その隙に相手の剣が降ってくる。
躱しきれず、剣で弾いた。ラジャグプタが驚いたように眉を上げる。
一合、二合、打ち合いになった。
受けては返すと次が来る。息も吐かせぬ連撃。集中を切らせば、そこで終わる。
考える暇がない。鈍い意識に反して、身体の自然に動いた。
理性では追い付かない。感性と本能の赴くまま、戦いに身を委ねる。
息が苦しい。胸が焼け焦げる。
長く忘れていた感覚だった。
煩いを全て投げ出し、自分が一本の剣になったような爽快感。
アンナは気付かない。自分の唇の間から白い歯がのぞいていることに。
剣を振った。木と木がぶつかる乾いた音が短く響く。
手首を返し相手の剣を弾き上げる。
返す刀で反対の剣を打ち据えた。
胴が空いた。そこに肩から飛び込む。
体当たりに相手の上体がぐらつく。
剣を握る右腕を前方へ放り出した。
アンナの剣先が相手の胸に伸びる。
そこで勝負は着いた。
「何故、剣を止めたのですか」
アンナの剣はラジャグプタの胸の前で止まっていた。
アンナの首と腹にラジャグプタの刃が当たっている。無論、思い切り打ち付けたわけではない。
木剣を落とし、アンナがその場に座り込んだ。胸のなかに空気が足りず、赤黒い顔で荒い呼吸を繰り返す。
「躊躇しましたね」
ラジャグプタの声は変わらず柔らかいが、口調がどこか寒々しい。アンナは苦しそうに喘ぎながら彼を見上げた。
「貴方はナルセスという方の命を奪ったと嘆いていましたね。でもそれは、悩むほどのことではありませんよ。単に弱かっただけのことなのです」
「そっ、そんなことはありません。ナルセス様はとても強かった」
アンナは息も絶え絶えに反論する。
ナルセスは間違いなく強かった。アンナがそれまでに戦った相手のなかでただ一人、彼女と同等に渡り合った人物だった。だからこそ、それまで経験することが出来なかった境地へ至れたし、だからこそ、二人の決着は相手の命を奪うことでしか着かなかった。
「勘違いしないでください。私が弱いと言ったのは貴方のことです」
ラジャグプタの言葉にアンナは耳を疑った。少なくとも、彼女は彼と互角に戦ってみせた。とどめを尻込みしなければ、結果は反対になっていたはずである。
眉を寄せる彼女に動じることなく、ラジャグプタは淡々と話し続ける。
「強いとは、相手を自由に出来るということです。強者とはあらゆる相手の生殺与奪を握る者。殺したくないならば、そうすれば良かったのです。殺す覚悟など必要ありません。相手を殺すことしか選択できなかったということは、貴方が弱いということですよ」
ラジャグプタは、やはり、微笑している。
アンナは、生まれて初めて人の笑顔を恐ろしいと感じた。